2024年05月19日
20歳の時に交通事故で右腕を失った伊藤真波さん。苦悩の日々を乗り越え、日本初の義手の看護師という夢を叶えながら、水泳のパラリンピック選手としても二大会に出場、現在は講演活動とヴァイオリンに力を注がれています。「事故はいい勉強になった」と笑顔で語る伊藤さんの芯の強さは、どこから来るのでしょうか。転機となった出来事とこれまでの歩みを語っていただきました。
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人生が一変した交通事故
〈伊藤〉
私は中学の頃から看護師を志しており、2004年の事故の時も看護学校に行く途中でした。
看護学生の頃は、まさか自分が患者の立場になるとは思ってもいなかったですし、障碍のある方と接する機会があっても、正直、他人事でした。この体になって、看護とは何か? 患者さんの心に寄り添うとは? と、改めて深く考えるようになったんですけど、そういう意味でものすごくいい勉強になったと思っています。
――しかし、事故の直後はなかなかそうは思えなかったのではありませんか?
〈伊藤〉
そうですね。大きな事故だったので、こう考えられるようになるまでに長い年月を要しました。
私がバイクに乗っている時にトラックと衝突し、右腕がタイヤに絡んで引き摺(ず)られてしまう大事故でした。一応右腕は残っていたものの、腕の中に砂利や車のオイルが入り込み、病院の先生がタワシで必死に掻き出し、太腿(ふともも)やお腹から筋肉や皮膚を移植する大手術を何十回も繰り返しました。顔の損傷も激しく、私の顔写真を見ながらパズルのようにパーツを元の位置に戻す手術も行われたんです。
痛みのあまり、何でこんなにしんどいの? 何で私だけ? という思いでいっぱいでした。友人からメールがきても、
「どうせ他人事でしょ。私はもうみんなと同じ世界には戻れない。恋愛もできないし結婚もできない。これからは隠れて生きていくしかないんだ」
と、人と比べてネガティブなことばかり考えていました。
――突然世界が一変してしまった。
〈伊藤〉
自分の状態を受け入れられずに、何度も両親に八つ当たりしてしまいました。
3週間ほど経つと、右腕の傷口から入った菌により感染症を患い、右腕を切断せざるを得なくなりました。「自分はこれから障碍者と呼ばれてしまう」「家に引き籠って生活するようになるんだ」と思い込み、不安でいっぱいでした。
――そういう苦境をどうやって抜け出されたのですか?
〈伊藤〉
母ですね。実は、バイクに乗ることを母はずっと反対していたんです。でも、昔から私は自分勝手で、「バイクに乗っても誰にも迷惑かけていないでしょ?」と家族を顧みずに、友達と遊んだりバイトに明け暮れる生活をしてきました。「いい加減にしなさい」と母から何度叱られても、全く聞く耳を持っていなかった。
そんな母が、私の病室に毎日明るく面会に来てくれる一方で、先生から私の病状を聞かされている時は、いまにも泣き出しそうな顔をしていたんです。その顔がいまだに忘れられません。
親孝行一つしていない自分が、このまま両親の面倒になるわけにはいかない。腕を切断して、新しい人生を歩み始めよう。まだ20歳だから人生はこれからだ。そう決意し、実家のある静岡県を出て、義手をつくるために兵庫県神戸のリハビリ専門病院に転院しました。
片腕でも看護師に
――自ら親元を離れたのですね。
〈伊藤〉
11月に事故に遭い、2月に急性期病院を退院して、3月末には神戸のリハビリの病院に転院というスケジュール感でした。
片腕って1.5~2キロくらいあるので、それがポンッとなくなると、体全体のバランスが取れなくなるんですね。切断後、常に肩が上がってしまうし、真っすぐ歩くこと自体が難しくなりました。自分では直線に進んでいるつもりでも、いつの間にか車道の真ん中を歩いていて、クラクションを鳴らされてしまった、なんてことがよくありました。
――それはお辛かったですね。
〈伊藤〉
初めの頃は腕がないことが周囲に知られるのが嫌で、家から数十メートル先の自動販売機にさえも行くことができず、通院する時などはジャンパーを羽織って袖口をポケットに入れてコソコソと歩いていました。ですので、神戸のリハビリ病院で、私よりも重度の患者さんや車椅子に乗った方、義足の人たちが堂々としている姿を見て、とても衝撃を受けました。
なぜ自分の負い目をこんなに堂々と曝け出せるのだろう。そう考えた時、何でもいいから自分に自信をつけなければいけない。自分のことを誇れるような、褒めてあげられるようなものを持たなければならないと痛切に感じました。
――自分に自信をつける?
〈伊藤〉
とにかく強くなりたかったんです。リハビリ病院に来た目的が看護学校に復学するための義手をつくることだったので、まずはそのことに専念しました。
肩甲骨を開いたり閉じたりすることで先端についているフックが開閉し、注射針やガーゼなど細かいものも扱える作業用の義手をつくってもらい、日常業務を滞りなく行えるようリハビリ病院で一年半訓練しました。その後、看護学校に復帰し、2007年には看護師国家資格にも合格して、神戸百年記念病院で働き始めることができました。
――国内初の義手を使った看護師の誕生ですね。
〈伊藤〉
特注した義手はディズニーキャラクターのフック船長の腕のような特殊な形をしており、私自身も受け入れるまでに時間がかかったんですけど、やはり初めて目にする患者さんもびっくりされます。そのため、信頼関係が築ける前には採血など看護行為をするなんてことは絶対にしません。
他の看護師と同じように注射もしたいし、手当てもしたい。だけど看護は自分本位じゃないよね、と自分に言い聞かせ一歩引くよう心掛けてきました。患者さんを第一に考え、自分ができないことは無理せず同僚や後輩に頭を下げ手伝ってもらうことを覚えましたね。でも、本当は悔しくてしょうがなかった。私は何ができるのって。
――ああ、葛藤を抱えられていた。
〈伊藤〉
その時、ある先輩がふと漏らしたひと言で救われたんです。「あなたは患者さんの隣に座って、話を聞いてあげるのが得意でしょ? 私にはそれができない」と。
確かに、毎日のガーゼ交換の作業でも、いきなり「はい、始めます」と事務的に行うよりも、「きょうの体調はどうですか?」とひと言声を掛けるだけで、患者さんの感じ方は全く変わってきます。私だからこそ患者さんに寄り添え、私にしかできない仕事があるのだと教えてもらえたことは、看護師としての基盤になりました。
(本記事は月刊『致知』2020年10月号 特集「人生は常にこれから」より一部抜粋・編集したものです)
本記事では他にも「自らを追い込み臨んだパラリンピック」や「障碍を通して学んだ人生で大切なこと」など、逆境を力へと変えていくヒントが詰まっています。ぜひご覧ください。(「致知電子版」でも全文お読みいただけます)
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昭和59年静岡県生まれ。平成16年20歳の時に交通事故に遭い右腕を切断。看護師用の義手をつくるため単身神戸へ。19年専門学校を卒業し、看護師の国家試験に合格。神戸百年記念病院に勤務。20年北京パラリンピックに出場。100メートル平泳ぎ4位、100メートルバタフライ8位。22年アジアパラリンピックにて100メートル平泳ぎ2位。24年ロンドンパラリンピックにて100メートル平泳ぎ8位。現在は講演活動の傍ら、ヴァイオリンも奏でている。