2024年04月05日
2004年2月、イラク戦争後の復興支援を目的に、日本の自衛隊員600名がサマーワに派遣されました。焼けつくような日差し、砂嵐に見舞われる過酷な環境の中でも決して手を抜くことなく、黙々と任務を果たす隊員たちの姿は、イラクの人々だけでなく、共に復興支援に尽力する世界の人々にも大きな感動を与えました。当時、郡長を務めた番匠幸一郎さんは、いかに世界に尊敬される部隊を率いたのでしょうか。
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組織の強さは些細なところに宿る
<番匠>
第一次復興支援群には大きく二つの役割がありました。一つは日本からサマーワまでの8000キロ部隊を移動し、必要な物資を輸送し、砂漠の真ん中に宿営地を建設すること。もう一つが給水、医療、公共工事などの人道復興支援業務を開始することでした。
出発前、私は隊員たちに次のように呼びかけました。
「我々は、日本人らしく誠実に心を込め、武士道の国から来た自衛官として規律正しく堂々と与えられた任務の遂行に全力を尽くそうではないか」
私たちの任務は長い戦乱で苦しんでいる人々を支援することです。であれば日本人の国民性である誠実さを前面に打ち出し、心を込めて任務を遂行せねばなりません。しかしながら自爆テロが頻発する戦争直後のイラクに、わが国唯一の武力集団として派遣される以上、どの国の軍隊にも負けない気概と能力、そして武士道の伝統を継承する集団としての誇りも失ってはなりません。私はこのような思いを込めて、隊員たちの意識を促したのです。
さて、イラク到着後、私たちがまず直面したのは猛烈な暑さなど環境の変化でした。2月のサマーワの日中の気温は40度を超え、私の当時の勤務地である北海道名寄市との気温差は70度もありました。かと思うと、朝夕は防寒着を着込まないとガタガタ震えるくらい冷え込むのです。
しかも空気が乾燥しているので汗はすぐに蒸発し、防弾チョッキを脱ぐと汗の部分が白く塩を吹いているのが分かるほどでした。
一か月ほどするとようやくこの気候に体が順応してきましたが、4月、5月の日中最高気温は50度くらいにまで上がり、まるで巨大なドライヤーの前に立って熱風を浴びせられているような感覚でした。気温より体温が低いので、自分の体を触ると冷たく感じるのです。
砂嵐や害虫にも悩まされました。砂嵐が始まると辺りは黄色一色に染まり、100メートル先も見えないほど視界は悪くなります。大量の砂を被る車両の性能を劣化させないため整備を徹底し、銃器類の弾倉装着部分には砂が入り込んできますので、常に手入れを欠かしませんでした。万一スライドに支障をきたせば命取りになりかねません。頻繁に現れる毒蜘蛛やサソリ等の虫、ネズミなどの駆除にも腐心しました。
私たちの最初の仕事である宿営地の建設は、こういう過酷な環境下で行われました。宿営地はサマーワの中心から約6キロ離れた、四方の地平線が見えるくらい何もないところでした。ここに東京ドームがいくつも入るような土地を確保し、そこを平らに整地して砂利を敷き詰め施設を造るのです。
宿営地建設にあたり私たちは、すでに現地入りしていた38か国の、どの部隊にも負けないものを造ろうと誓い合いました。鉄条網を張り巡らせ、壕を掘り、土手を造り、外部からはまったく隙のない砦のように見えたに違いありません。私たちの宿営地を訪れた他国の軍隊からも「ここはイラクにおける宿営地のモデルだ。日本の自衛隊に学べ」と高く評価されていました。
強い軍隊と弱い軍隊は一目で分かります。「弱そうだ」と思われたらそれまでです。そしてそれは服装の着こなし、目つき、武器の手入れ状況、掃除など些細なところに表れます。相手に隙を見せないために私が最も重視したのは日々の生活の規律でした。
テントを張るにしても駐車場に車を並べるにしても、先頭の位置を誤差3センチ以内に揃えることを徹底させたのもその一つです。日常の生活面でも朝は午前6時のラッパとともに起床し、洗面、朝食を済ませ毎日朝礼・終礼を行いました。イラク国旗に続いて日の丸を掲揚し両国の国歌を演奏する。こういうことをいささかも手を抜くことなく続けました。
ある意味で、自衛官として当たり前のことをやったまでですが、当然やらねばならないことを徹底させることで、軍事組織としての自衛隊のレベルの高さをイラク国民に認識させたのです。
(本記事は月刊『致知』2006年1月号「立志立命」掲載記事の一部を抜粋・編集したものです)
◇番匠幸一郎(ばんしょう・こういちろう)
昭和33年鹿児島県出身。55年防衛大学校卒業。平成12年米国陸軍戦略大学卒業。第三普通科連隊長兼名寄駐屯地司令、第一次イラク復興支援群長、幹部候補生学校長、陸上幕僚監部防衛部長、陸上幕僚副長、西部方面総監などを歴任し、27年退官。30年まで国家安全保障局顧問。現在は拓殖大学客員教授、全日本銃剣道連盟会長を務める。共著に『核兵器について、本音で話そう』(新潮新書)など。