2025年02月07日
ラーメン激戦区・福岡発祥の人気店「一風堂」をはじめ、ラーメン業界に革新を巻き起こしてきた力の源ホールディングス会長兼ファウンダーの河原成美氏。道なき道を切り開き、世界にその名を轟かせるに至った資質とは何か。同じく世界を舞台に存在感を示すデザイナー・コシノジュンコ氏とともに語り合っていただきました。
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世界で戦える人にはオリジナリティーがある
<コシノ>
そもそも河原さんはどうしてラーメン屋さんになろうと思ったの?
<河原>
僕の商売のスタートは、27歳の時に福岡市内で立ち上げた5坪のレストランバー「アフター・ザ・レイン」でした。
その店を軌道に乗せて30代に入ると、もともと好きだったラーメン屋になりたいと思って、修業に入ったんです。
でも、当時の福岡にはかっこいいラーメン屋がなかった。皆、うらぶれていた。
<コシノ>
ラーメンといえば、屋台をイメージする時代でしたね。
<河原>
そう。ファッション性も何もなかった。若者、特に若い女性から見ると、当時のラーメン屋という職業は「臭い・汚い・かっこ悪い」というイメージだった。
<コシノ>
ああ、3Kね。
<河原>
だから、「女性が集まる、おしゃれでかっこいいラーメン店」というコンセプトで「博多 一風堂」を創りました。1985年、32歳の時です。
<コシノ>
一風堂は本当にかっこいいですよ。「おしゃれをしてラーメンを食べに行くんだったら一風堂」という感じ。
<河原>
僕は「3」という数字が好きなのですが、27歳で商売を始めた時に、「3年間は休まない」「売り上げゼロの日をつくらない」「35歳までには天職に就く」という、自分自身に対する3つの決め事をつくったんです。
35歳までにラーメンという天職に出会って、3つの決め事は達成できたのですが、特に「3年間は休まない」を守れたのがよかったなといまでも思います。
<コシノ>
創業時はお休みなしで働いた?
<河原>
はい。台風の時も、盆も正月も、休みなく店を開け続けました。3年経った時に、「河原成美もやればできる」と、内なる自分から理解を得られたように思ったんです。そこから人生の扉が開いていったと感じています。
でも、37歳の頃に「店は4軒になったし、これくらいでいいのかもしれない」と、目標を見失い、経営がうまくいかなくなったんです。
転機になったのは1994年、42歳になる年、横浜にできた「ラーメン博物館」から出店の声が掛かったことでした。オープン時にメディアに取り上げられ、一風堂も全国的に知られるようになったんです。大手の広告会社が試算したら、16億円相当のコマーシャル効果があったそうです。
後に『TVチャンピオン』の「全国ラーメン職人選手権」に出場して3連覇することができたのも、ラーメン博物館があってのことですし、ニューヨークや香港といった海外に進出していくきっかけにもなりました。
<コシノ>
メディアの力もあったと思うけど、河原さんのように誰もやってないことをやるというのが大切ですね。河原さんはオリジナリティーを持っているから成功できたんですよ。
でも、世の中で儲かっている人って二番煎じなんですね。先駆者がやったことをちゃっかり真似する人たちがしっかり儲けている。
<河原>
ただ、それを悔しがっていても仕方がないと思う。やっぱり、僕は自分に誇りを持って仕事をしていきたい。
<コシノ>
そこです。結局、自分の仕事への誇り、オリジナリティーを持っている人は、国内で勝とうが負けようが、世界に堂々と行けるんです。
(本記事は月刊誌『致知』2019年8月号 特集「後世に伝えたいこと」から一部抜粋・編集したものです)
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消費の低迷をものともせず、個性溢れる経営で躍進を続ける外食の雄がいる。和食レストランのばんどう太郎をはじめ様々な業態の店を展開し、北関東に盤石の礎を築いた青谷洋治氏。豚骨ラーメンの一風堂で世界進出、株式上場を成し遂げた風雲児・河原成美氏。そして不慮の死を遂げた前任社長の志を継ぎ、餃子の王将で年商1千億円を実現した渡邊直人氏。彼らはいかなる道を経て功を成してきたのか。互いを認め合う3人が語り尽くす経営への思い──。
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◇コシノジュンコ
大阪府岸和田生まれ。1960年代より数々のグループサウンズの衣装で活躍。日本万国博覧会(大阪万博1970)にて生活産業館、ペプシコーラ館、タカラ館の3パビリオンのユニフォームをデザイン。1978年から22年間、パリコレクションに参加。1985年北京での中国最大のショウをきっかけに、ニューヨーク(メトロポリタン美術館)、ベトナム、キューバ、ポーランド、ミャンマーなどでファッションの枠を超えた日本文化を発信するショウを開催してきた。DRUM TAOの舞台衣装や琉球海炎祭、花火のデザインも手掛ける。東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会文化・教育委員、2025年国際博覧会誘致特使。2017年文化功労者。文化庁 「日本博」企画委員。TBSラジオ「コシノジュンコMASACA」(毎週日曜17時~)放送中。
◇河原成美(かわはら・しげみ)
1952年福岡県生まれ。1979年にレストランバー「アフター・ザ・レイン」を開店。1985年「女性が集まる、おしゃれでかっこいいラーメン店」というコンセプトで「博多 一風堂」をオープン。1997年TVチャンピオンの「全国ラーメン職人選手権」優勝後、3連覇達成。ニューヨークを皮切りに世界各国に店舗を展開(2019年3月末現在国内外合わせて266店舗)。2010年全米の「TOP 10 Restaurants」(Yelp)で1位を獲得。2003年から小学生を対象にラーメンや餃子の作り方を教える「出前授業」にも取り組み、その数は700校を超える。『「7つの習慣」と「一風堂」』(PHP研究所)など著書多数。
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