世界シェア8割──堀場製作所会長・堀場厚が20代で学んだ「語学力」よりも大切なこと

「おもしろおかしく」を社是に掲げ、いまや自動車の排ガス測定機の分野では世界シェアの8割を占める堀場製作所。元祖学生ベンチャー企業だった会社を継いで以来、売上高を約5倍の2,000億円へと成長させたのが、会長兼グループCEOの堀場厚さんです。現在世界29の国と地域に50社を展開する国際企業をつくりあげた堀場さんに、グローバル化の起点となった20代での渡米経験を語っていただきました。

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基礎を築いたアメリカ時代

アメリカには約7年半滞在しましたが、あの時代はいわば経営者としてのビジネススクールで、素晴らしい仲間に出逢えた貴重な経験でした。

1971年に初めてアメリカに渡り、サービスマンとして製品の修理の仕事を担当することになりました。ところが、出だしから大きな壁が立ちはだかりました。日本から送られてきた分析機器の製品のうち、多くが故障していたのです。

何度か修理を試みるも原因が分からない。国際電話が高かったため、日本にテレックスで窮状を報告したところ、「日本ではそのようなトラブルは起きていない」と、にべもない返事しか来ませんでした。

現場には「社長の息子は何も分かっていない」という冷たい空気が漂っていました。結果的に空輸中の気圧の変化や乾燥したカリフォルニアの気候に原因があったことが判明し、何とか自力で解決策を見出したことで、現地の社員たちは私を評価し、協力してくれるようになりました。

肩書や年齢ではなく一個人の実力をそのまま評価する。この根本的な考え方は、後にグローバル展開をする際にも大きく役立ちました。

「英語で語れないことは日本語でも語れない」

私は開発を志し、大学では物理学を専攻していましたが、これからは電気とコンピュータの時代だと考え、二年働いた頃にアメリカの大学で学び直す決意をしました。

知人の伝手を頼りに、カリフォルニア大学アーバイン校の3回生に編入し、長期休暇の時だけ仕事に戻るという生活を3年半送りました。

修士課程を修了するまでの学生生活は、二度と戻りたくないと感じるほど過酷なものでした。学校自体が創設間もないこともあり、教授陣が皆若くてエネルギーに満ち溢れ、毎回膨大な課題を出すのです。留学生だけでなく現地の学生も苦労するほどの勉強量でしたが、ここで苦楽を共にしたクラスメートは生涯の友となりました。

この期間に最も学んだのは、自分の言葉で語ることの重要性です。毎週1回、工学系の授業の他に学部長の講義がありました。その時になぜか必ず私が指名され、日本の文化や産業など様々なテーマで3分間スピーチをさせられました。

「日本語だったらもっといいスピーチができるのに」、初めこそそう考えていましたが、しばらくして「英語で語れないことは日本語でも語れない」と気がつきました。

語学力とは関係なく、自分の考えをまとめていないと人には伝わらない。逆に下手な英語でも、中身があれば皆が聞いてくれるのだと実感しました。

この経験から、当社では社内会議に通訳を一切設けていません。英語が苦手な社員はできる人に通訳してもらい、必ず自分の言葉で語らせます。

英語が苦手な人にとっては地獄のような環境ですが、当社が世界29の国と地域に50社を展開していても、海外オペレーションがうまくいっている理由はここにあると確信しています。


(本記事は月刊『致知』2022年1月号 連載「二十代をどう生きるか」より一部を抜粋したものです)

堀場厚(ほりば・あつし)
昭和23年京都府生まれ。46年甲南大学理学部卒業後、米国のJVオルソン・ホリバ社に入社。48年カリフォルニア大学アーバイン校に入学し、50年同大学工学部電気工学科を卒業。52年同大学大学院工学部電子工学科修士課程を修了し、堀場製作所に入社。平成4年社長に就任、17年より会長を兼務。30年より現職。著書に『難しい。だから挑戦しよう』(PHP研究所)など。


◉この他にも、堀場さんには「自分の人生は自分で決める」「趣味を通じて人間性を磨く」「社是は『おもしろおかしく』」など、若き日を振り返っていただきながら、仕事や人生の壁を突破する様々なヒントを語っていただいています。本記事(バックナンバー)は「致知電子版〈アーカイブ〉」にて全文を閲覧いただけます!

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