2021年08月30日
現在熱戦が繰り広げられている東京パラリンピック。これまで8大会に出場し、並み居る日本代表の中で〝レジェンド〟と称されるのが、パラトライアスロン選手であり、車いすマラソン選手でもある土田和歌子さんです。これまでパラリンピックのみならず、ボストン、ホノルルなど各地の様々なマラソン大会で優勝してきた土田さんは、なぜ今日までチャレンジを続けているのでしょうか。10年前に弊誌『致知』へお聞かせいただいた肉声から、その原点を探ります。
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人生を変えた大事故
――車椅子アスリートとして、数々の世界大会で優勝されている土田さんですが、スポーツを始めるきっかけとなったのが交通事故だったとお聞きしています。
〈土田〉
そうですね。
相手がいらっしゃることなので、詳しくは話せないんですけれども高校2年の時、乗っていた車が高速道路で単独事故を起こし、助手席にいた私は車外に放り出されてしまったんです。もちろん車も大破。私は脊髄を強打し、そのまま立てなくなってしまいました。
救急車に乗せられ、自宅の住所と母の名前を伝えたことをうっすらと覚えているんですが、それ以外の記憶はありません。数日後に現場に花が置かれていたと聞きましたし、死者が出たと思われるくらい大きな事故でした。
――体の機能を失ったショックも大きかったでしょう。
〈土田〉
もちろんありました。お医者様から歩けないと宣告された時は「ああ、これで大好きな自転車にも乗れなくなるんだな」と思うと、涙が止まりませんでしたね。だけど、落ち込んだのはそのくらいで、死を意識したとか、どん底まで落ち込んだりとか、そういう記憶はあまりないんですね。
やっぱり小さい頃からものすごく負けず嫌いだったし、活発で明るい性格だったこともあったのでしょうが、一つには周りの環境もよかったと思っています。入院した病院が脊髄損傷の人たちが社会復帰するための専門の病棟がある施設で、車椅子の人たちがたくさんいらしたんです。
ベッドに横になって廊下に目をやると、カラフルな車椅子に乗ったお兄さん、お姉さんたちがスピードを出しながら廊下を通り抜けていく。その様子を見ながら「ああ、私も早くアクティブに活動できるようになりたいな」と強く思ったのが、障害を受け入れることができたきっかけだと思います。
それに、母も私の前では絶対に悲しそうな顔をしたり、弱音を吐いたりすることがありませんでしたから。
――気丈に振る舞われていたのかもしれませんね。
〈土田〉
父が早くに病気で亡くなりましたので、母は苦労しながら女手一つで姉と私を育ててくれたんです。それだけに衝撃は大きかったと思います。私のいないところではいつも泣いていたといいますし……。
もし、この時、母が悲しんでいる顔を私が見ていたら、これほど人生に希望を持てなかったし、アスリートの道へも進んでいなかったかもしれません。
アスリートとして心掛けていること
――アスリートとして日々、どのようなことを心がけられていますか。
〈土田〉
もちろん勝ちたい、極めたいという思いがあってモチベーションが維持されているわけですけれども、ここ数年、目的意識というのか
「何のために自分は走っているのか」
を強く意識するようになりましたね。それは、ただ勝ちたいというよりも一種の使命感のようなものだと思っています。
特にそれを感じたのが今年4月のボストンマラソンでした。その前月、東日本大震災があって、私自身も大変心を痛めたんですけれども、被災地の皆様に心を馳せ、自分に何ができるかを考えた時、それはやはり走ること以外にないと思ったんです。
いま振り返っても不思議なのですが、スタートラインに立った瞬間から、自分以外の何かから力をいただいているような感覚がありました。競技中、とても苦しい中で「たとえ腕がちぎれても走るんだ」という気持ちが湧いてきたのは、日本に対して何かのメッセージを伝えたいという願いがあったからだと思います。
そして驚いたことに、ゴールを切った時、16年間破られることのなかった記録を更新していたんですね。1時間34分6秒。未公認ですが世界記録を4分も縮めていました。
この結果は日本だけでなく海外からも大きな称賛を浴び「ありがとう」という声もたくさんいただきました。私のアスリート人生の中で、特に忘れがたい試合の一つになることでしょう。
――強い使命感が、飛躍的な結果に繋がったわけですね。
〈土田〉
そうですね。心の持ち方って本当に大切だと思います。
私は今年37歳(※掲載時)で、車椅子になる前より、障害者となってからの年月を長く生きているんです。もしあの時事故に遭っていなかったら、いままで築き上げたアスリートとしての立場はきっとなかったと思いますし、強い使命感に燃えることもなかったでしょう。
生きていると誰だっていろんなことがあります。その時、ドッと落ち込んだとしても、どん底はいつまでも続かない。むしろその時が人生を開花させるチャンスなんです。
(本記事は月刊『致知』2011年11月号 特集「人生は心一つの置きどころ」より一部を抜粋・編集したものです)【登場者紹介】
◇土田和歌子(つちだ・わかこ)
昭和49年東京都生まれ。高校2年生の時の交通事故で車椅子生活に。平成6年リレハンメルパラリンピックに出場。10年の長野パラリンピックでは金銀合わせて4つのメダルを獲得。その後、陸上競技に転向し12年シドニー、16年アテネの両パラリンピックのほか、世界陸上やボストンマラソン、ホノルルマラソン、大分国際車椅子マラソンなどで数多く優勝している。