「憲法十七条」から読み解く、独立国家・日本の基盤をつくり上げた聖徳太子の実像

日本人に馴染みの深い聖徳太子。しかし知名度の高さに反して、その実像はあまり知られていません。聖徳太子の真実の姿、そして「憲法十七条」に込めた思いとは何だったのでしょうか――市井の研究家である永﨑淡泉さんに解説していただきました。

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心に刻むべき日本人の矜持

〈永﨑〉
601年より、太子は矢継ぎ早に策を打ち出していきます。

まず交通の要衝である斑鳩に斑鳩宮を造り、新羅征討を取りやめ、朝堂院を小墾田宮に遷して内政に取り組む環境を整えた上で、冠位十二階を制定し「憲法十七条」を作り、朝礼を改めました。

冠位とは、朝廷における席次を示す位階制度で、太子は冠位十二階において徳・仁・礼・信・義・智をそれぞれ大小に分けて12の序列を設けました。それまで所属する氏集団によって政治的地位が定まっていた氏姓制度の枠を超え、個人の実力や業績を評価し、抜擢しました。これによって官僚制度的なものを確立し、政を合理的に推進しようと考えたわけです。

冠位十二階の徳を除く仁・礼・信・義・智は、儒教の五常である仁・義・礼・智・信に由来しますが、着目すべきはその序列の違いと徳の扱いです。五常で重要な仁に次いで義と礼を入れ替え、さらに信を義の上位に位置づけ、「仁の徳・礼の徳・信の徳・義の徳・智の徳」の総和、及び調和として徳を最上位に位置づけています。

この総和及び調和こそが和であり、和すなわち徳となります。この独自性に聖徳太子の理想と官僚に対する期待が表れており、その具体的な条文が「憲法十七条」に記されているのです。

したがって冠位十二階と「憲法十七条」とは深い関連性があります。当時の我が国の国家レベルがまだ律令制度を受け容れられる状態ではなかったため、まずは道徳的訓戒や人倫の道となるような「手本=憲法」として、新制度が根付く環境づくりを目的に「憲法十七条」は作られたのです。

内政に一定の目処をつけた太子は、607年に第二次遣隋使を派遣しました。その時、小野妹子に持たせた国書は有名な次の一文から始まります。

「日(ひ)出(い)づる処(ところ)の天子、書を日没(ぼっ)する処の天子に致(いた)す。恙(つつが)なきや」

世界一の文明国・隋に対する大胆な物言いに、国を導いてきた自信が表れています。ただ太子は、不用意にこの一文を発したわけではありません。隋の国情を把握した上で、いま隋を多少刺激しても日本に攻めてくるほどの余裕がないと判断していたのです。

第一次遣隋使の屈辱から7年、太子は見事に国の基盤を整え、日本は隋の冊封体制には取り込まれない独立国であり、文明国であることを世界に宣言したのです。

日本は歴史上、3度独立を果たしています。3度目の独立は、第二次大戦後の1952年4月28日、サンフランシスコ講和条約が発効された時。二度目は幕末から明治維新にかけて、正確には治外法権を廃止し関税自主権を回復した1911年。そして記念すべき最初の独立宣言が、太子が隋に宛てた国書によりなされたのです。

この「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙なきや」という言葉は、その後の日本および日本人の矜持となっていまに伝えられています。この日本人の矜持・心が、「憲法十七条」のバックボーンとなっているのです。

十七の条文から読み取るべきもの

「憲法十七条」の条文は「提唱・注釈・結論」の三段落で構成され、人間の実相を凝視した深い呻吟が含まれていることから、1400年来、日本人の心の源泉として讃えられてきました。

具体的には第一条=「党」(無明)、第五条=「餮(むさぼり)」「欲」、第六条=「諂(へつらい)」「詐(いつわり)」、「佞(おもねり)」「媚(こび)」、第十条=「忿(いかり)」「瞋(いかり)」、第十二条=「賦斂(おさめ)」(搾取)、第十四条=「嫉妬」、第十五条=「恨(こん)」「憾(かん)」(うらみ)など、いずれも「我執・私利私欲」に絡んだもので、人の業についての省察の鋭さや憂国の至情と同時に、いまを生きる我われへの叱咤激励を読み取ることができます。

これまで「憲法十七条」は様々な解釈がなされてきましたが、主として仏教的説法調、あるいは学術専門的に偏った難解なものが多く、日常生活を懸命に生きている市井の民の立場で書かれたものがほとんどありません。
その理由は、「憲法十七条」が聖徳太子を聖人、あるいは日本仏教興隆の祖とする観念のうちにその解釈が行われてきたからです。

しかしながら、太子が渡来僧の慧慈(えじ)と慧聡(えそう)の教えのもとで『勝鬘経(しょうまんきょう)』『法華経(ほけきょう)』を講説し、その後『三経義疏(さんきょうぎしょ)』を撰述し終えた(615年)とされるのは、内政・外交に一定の目途が立った後のことであり、604年に作られた「憲法十七条」を真諦(しんたい)としての太子に結び付けて仏教的・説法的に解釈するだけでは、俗諦太子の実像から乖離している感は否めません。

ただここで大切なことは、先述のとおり、聖徳太子の虚像を壊していくことよりも、太子像、聖徳太子に重ね合わせてきた日本人の思い入れを考察し、日本人の心、日本の思想、日本人としての一人ひとりのあり方を究明して活学することではないかと私は考えます。

このことを踏まえて、「憲法十七条」の条文のいくつかを凡夫の眼で紐解いてみたいと思います。

「一に曰(いわ)く、和を以て貴(たっと)しと為(な)し、忤(さから)う無きを宗(むね)と為(せ)よ」

お馴染みの文言ですが、「和」という言葉に引きずられて「喧嘩をしないで仲よくしましょう」といった解釈にとどまりがちです。ここで留意したいのは「忤(ご)」です。「忤」には「御(ふせ)ぐ」という意味合いがあり、邪悪なものに抵抗して自ら守るということ、単に従順であるのではなく、相手に仁礼信義智の徳がなく道理、人倫にもとる場合は立ち向かうことを否定してはいません。ここでいう「和」とは、人民が「忤」の状況に陥らないよう、上に立つ者が道理や人倫に則った誠の政治、組織運営を行うべきことを示唆しているのです。

「二に曰く、篤(あつ)く三宝(さんぽう)を敬え。三宝とは仏・法・僧なり」

仏・法・僧を敬うということは、仏教徒にとって根本的な訓戒ですが、我われ凡夫はこれをどう受け止めるべきでしょうか。
仏とは真理に目覚めた人であり、師と解釈することができます。法とはダルマ、永遠の真理であり、釈迦はその真理を追究しようとの志を抱いて悟りに至ったことから、志と解釈してもいいのではないでしょうか。そして僧はともに仏道を追究する仲間ですから人生の友とも解釈できます。

吉田松陰は「士規七則(しきしちそく)」に

「徳を成し材を達するに、師恩友益(しおんゆうえき)多きに居(お)る。故に君子は交游を慎む」

と記し、最後に

「志を立てて以て万事の源と為す。交を択(えら)びて以て仁義の行いを輔(たす)く。書を読みて以て聖賢の訓(おしえ)を稽(かんが)ふ」

として、立志、択交、読書、つまり志、友、師の重要性を述べています。

とりわけ心に刻むべきは「志」であり、「我が人生はこうありたい」という一念を抱くことが重要です。その一念がなければ周囲に流され、一日一日をただやり過ごすばかりで、既に活き活きとした人生を放棄することにほかなりません。志はまさに、人生を輝かせる原動力といえましょう。


◉令和3(2021)年は、聖徳太子1400回忌の節目◉
月刊『致知』6月号では、永崎さんに太子が一千年以上も前に「十七条憲法」に込めた思い、そこに示された日本の精神を、現代における生き方と結びつけて綴っていただきました!


(本記事は2012年8月号 特集「知命と立命」から一部抜粋・編集したものです)

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◇永﨑淡泉(ながさき・たんせん)
昭和25年奈良県生まれ。49年京都産業大学経済学部卒業。倉敷紡績、藤沢薬品工業(現・アステラス製薬)に勤務。平成15年退職。同年より6年間京都大学中国哲学史研究室に在籍し東洋思想を学ぶ。著書に『「憲法十七条」の活学』『日本人なら一度は読んでおきたい「十七条憲法」』がある。

◇聖徳太子(しょうとくたいし)
574~622年。用明王の王子。母は穴穂部間人王女。名は厩戸王子。聖徳太子は諡号。推古王を援けて冠位十二階を制定、憲法十七条を作る。また、小野妹子を隋に派遣して国交を開く。広く学問に通じ、深く仏教にも帰依して法隆寺などを建立したとされる。

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