2019年10月16日
小林義功和尚は、禅宗である臨済宗の僧堂で8年半、真言宗の護摩の道場で5年間それぞれ修行を積み、その後、平成5年から2年間、日本全国を托鉢行脚されました。そうした体験を踏まえ、煩悩と欲望、そして修行の意味について語ります。
愛欲は肯定か否定か
真言宗④ 性欲は菩薩の位
真言宗のバイブルと言われている『理趣経』(『般若波羅蜜多理趣百五十頌』)には十七清浄句という一文がある。何が書いてあるか……。性欲は菩薩の位(境地)であると。
「何っ!」
高野山といえば女人禁制。男女の交合など入る余地もない。一途に仏道修行に専念する出家集団である。その聖域だ。しかも、この開祖は弘法大師。その高僧が定めた経典が『理趣経』である。
「う~ん。う~ん」と呻るばかりである。ただ、素直に考えるとこんな解釈もできる。僧侶の修行。その目的は悟りと人格の完成にある。高僧はその二つを成就した人物である。
となると、人格は僧侶において完成する。つまり、その完成は性欲排除。仏教信徒が増大し人格が完成されると性欲が消失する。つまり、人間の存在が否定される。
「あれー?」と素朴な疑問が残る。実際、赤ちゃんが生まれたら「おめでとう」と10人が10人祝福する。さらに言えば、「何で子供を生むの?」と問えば、「そんなー」と若い女性なら顔を赤らめて黙殺される。しかし、悪いことだと非難する人はいない。ただ「何で子供を生むの?」と言われても答えられない。
僧侶の世界は別だ。愛欲は煩悩である。だから、この『理趣経』の文言は、当時の奈良仏教の教義。その教義の根底に突き刺さる。その衝撃はあまりに強大であると判断されたか?
『理趣経』は秘匿された。実際、天台宗の祖・最澄は弘法大師空海から、たびたび貴重な経典の借覧を受けていたが、この『理趣経』は拒絶された。そして、交流が断絶した。その公開、露見は……まだその時期ではないと判断されたのか?
真言宗⑤ 欲望について
ただ、お大師さまはこの性欲だけを問題にしてはいない。24歳で『三教指帰』を著わし、儒教、道教より仏教が優れていると宣言して仏道修行に専念した。それから31歳まで、経典研鑽と山野を跋渉しての難行苦行。
その7年。そこでお大師さまは何を模索していたか。そのテーマは欲望でなかったか。その為に奈良の仏教経典をつぎつぎ読破したが、欲望を正当化する記載はなかった。それが久米寺で『大日経』(だいにちきょう)を発見し、最新の密教経典に出逢い狂喜した。
日本の歴史に華々しく登場するのはここからだが、その歴史書は幾らでもある。そこで、ここではその主要テーマ。その欲望に論点を戻す。
悟りは生きた人間にこそ
欲望は果たして煩悩だろうか? 出家することは欲望を断つ。そのための修行である。性欲を断つ。これが第一の関門である。
次に、僧堂では朝が早い。4時起床。もしくは3時起床。夜の消灯は9時だが、夜座になると10時半、11時である。12月の蠟発大接心(ろうはつおおぜっしん)ともなれば、睡眠時間は3時間。それも、横臥はできない。しかも、一日中座禅である。強靭な意志と体力で睡魔と戦う。
天台宗の回峰行は有名である。その最後に控えているのが堂入りである。不眠不臥(ふみんふが)。断食断水を厳修する。しかも、護摩を焚き続ける。つまり、ここでも睡眠欲と食欲との戦いだ。
しかし、7日、8日が限度である。生死の境。ギリギリまで行者を追い詰め、そこで止める。続けたら、死である。つまり、これ以上続けたら人間を否定することだ。
真言宗⑥ 欲望の肯定
欲望を完全に否定したら人間は死ぬ。死んで一切の欲望も消える。欲望が消えたら仏になる。そうだろうか。逆に言えば、生きている限り完全な仏にはなれない。そういうことにもなる。
「うっー」
これも妙だ……。悟りは生きた人間にこそある。生きた人間が苦を脱して仏となる。その生きた人間と欲望はクルマの両輪である。ならばその欲望、煩悩を肯定してこそ人間の尊厳が確立する。お大師さまの空白の7年は、この欲望を肯定するか、否定するか、その試行錯誤があったのではないか。そして、肯定したのだ。それが即身成仏の基礎にある。
実際、今日では病院が大繁盛。大怪我をする。癌だ、脳梗塞だと医者にかかる。それは治りたい、生きたい。その一念だ。誰だって治りたいと思い、生きたいと思う。それは生存欲である。それは悪いのか? 善いのか?
善いも悪いもない。人間はその生存欲という欲の中で生きているのだ。その欲望を美しく表現したのが「命(いのち)」とか「生かされている」という言葉である。しかし、それはずっと後代のこと。奈良仏教の時代は、欲望は欲望であり、煩悩は煩悩であった。
お大師さまの欲望、その見解は、今日極めて重要である。それはおいおい解説していくことにします。
つづく
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小林義功
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こばやし・ぎこう――昭和20年神奈川県生まれ。42年中央大学卒業。52年日本獣医畜産大学卒業。55年得度出家。臨済宗祥福僧堂に8年半、真言宗鹿児島最福寺に5年在籍。その間高野山専修学院卒業、伝法灌頂を受く。平成5年より2年間、全国行脚を行う。現在大谷観音堂で行と托鉢を実践。法話会にて仏教のあり方を説く。その活動はNHKテレビ『こころの時代』などで放映される。著書に『人生に活かす禅 この一語に力あり』(致知出版社)がある。