2019年09月30日
ラグビーのワールドカップ(W杯)が開幕し、熱い戦いが繰り広げられています。日本代表は「ONE TEAM」のスローガンの元に結束、期待は高まる一方です。かつて、伏見工業高校(伏見工)ラグビー部を常勝軍団に生まれ変わらせた名将・山口良治氏が、西鉄ライオンズで鉄腕と呼ばれた稲尾和久氏と「闘う姿勢」について語り合いました。
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伝説の1971年対イングランド戦
(稲尾)
山口さんの人生の師というと、どなたになりますか。
(山口)
いい先生にはたくさん恵まれました。なかでも全日本の大西鉄之祐監督から受けた薫陶は大きかったですね。1971年のイングランド戦(9月28日、東京・秩父宮)は最も印象に残っています。
試合前のミーティングのとき、白髪の監督が日本代表のジャージーを自分の前にずらりと並べて塩を盛り、目をつぶって正座していました。後ろの黒板には「対イングランド戦必勝の心構え」と書いてあり、
一、日本ラグビーの新しい歴史の創造者たれ
一、一発必倒捨て身のタックル
と2つ書いて、微動だにしない。
全員が揃うとやおら目を開けて、鋭い目でジロッとにらみつけ、試合の意義などを言われた後、最後に「よし、それじゃあ座り直せ」と言うわけです。「背筋を伸ばせ 目をつぶれ」と言う。
それが長かった。ゲームの場面がばーっ出てきて、すごく長く感じるんですよ。そして「よし目を開けろ」と言う。
「それじゃあ、いまからジャージーを配る」と言って、盛ってあった塩をつかんで気合もろともまくんです。選手みんなに気合が入りましてね。その晩はほとんど眠れない。
監督は「死んでこいっ」と檄
(山口)
試合直前のロッカールームなんか、動物園の猛獣の檻(おり)のようでした。ロッカーにガーンと頭をぶつけているやつ、壁を蹴飛ばしているやつ。そんななかに大西監督が入ってきて、「よし集まれ、日本のラグビーのためにおまえたちの命をくれ」」と言う。水盃(みずさかずき)が用意されていて、「死んでこいっ」と言って送り出されました。
激闘の80分間のなかで、怖いとか、痛いとかいう個人的感情は何も残ってない。気がついたら終わっていた。一瞬だったんです。結局6対3の惜敗だったんですが、人間をあそこまで追い詰めたら、すさまじい力になるんだということを体験しました。
(稲尾)
僕の場合は西鉄に入団したときの監督、三原脩さんが一番影響を受けた人ですね。いろいろと思い出はありますが、入団1年目のバッティングピッチャーをやっているとき、オープン戦の最中に、高校の卒業式があったんです。学校から、特別に表彰するから帰ってこいと言われまして。
で、三原さんに言ったんです。「そうか、帰りたいだろうな」と言うんですよ。「帰りたいです」って言ってね。1月に自主トレに出て以来、帰っていませんでしたから。そうしたらボソーッと「君はだんだん良くなってるよ。だから、人生の思い出のために帰るか、これからの人生に懸けるか、好きにしていい」って言うんですね。
そう言われて、やっぱり帰れなかったですね。それで開幕から一軍に入れたんだけれども、あそこで3日なり4日なり帰っていたら、デビューは遅かったと思います。
鉄球を投げて鍛える荒治療
(山口)
18歳でそういう選択を、自分でできたんだからただ者じゃない。入団3年目で「神様、仏様、稲尾様」と言われるわけだ。
(稲尾)
いや、田舎の青年が知らないうちに大スターになって、祭り上げられていくんですから、何をやってもできると錯覚していました。そんな思い上がった気持ちを覚まさせてくれたのが、9年目の肩の故障でしたね。
6試合登板して、ゼロ勝2敗。肩を痛めて休んで治療する。ああ、もう良くなったとまた投げたら、また故障です。当然マスコミが非常に冷たくなって、「堕ちた偶像」なんて書かれました。ファンはどんどんいなくなって、悶々とした1年間でした。
あらゆる治療を試みましたが効果がなくて、野球をやめようかとも考えましたが、翌年の元旦にやっぱり野球しかない、もう一遍やろうと気持ち決めたんです。しかし、投げると肩は痛い。
そこで、ふっと思いついて、知り合いの鉄工所で野球の球と同じ大きさの鉄の球を作ってもらったんです。滑らないように縫い目もつけて。それを2月中旬くらいまで毎日投げた。
(山口)
荒治療ですね。
(稲尾)
まさに荒治療でした。(中略)しかし、いま考えるとあの1年間は自分にとって良かったと思います。人の痛みがわかるようになりましたから。
◇山口良治(やまぐち・よしはる)
昭和18年福井県生まれ。日本体育大学卒業後、岐阜県県立長良高校、岐阜工業高校教諭を経て京都市教育委員会に勤務。伏見工業高校の監督として全国大会を初制覇し、テレビドラマ『スクール・ウォーズ』のモデルにもなった。ラグビー元日本代表選手。
◇稲尾和久(いなお・かずひさ)
昭和12年大分県生まれ。別府緑ヶ丘高校卒業後、西鉄ライオンズ入団、新人王。33年の日本シリーズでは巨人相手に3連敗の後、4連勝し「神様、仏様、稲尾様」と言われた。通算276勝、137敗。平成5年野球殿堂入り。19年死去。