松下幸之助も学んだ二宮金次郎の経営手腕

二宮尊徳といえば、薪を背負いながら書を読む「勤勉」の印象が強いようですが、江戸時代末期に関東から南東北の農村改革に尽力した功労者でもあります。その業績や教えは伝記『報徳記』を通して広まり、渋沢栄一や松下幸之助や土光敏夫といった経営者にも影響を与えたとされます。その『報徳記』の現代語訳を手掛けた経済コラムニストの木村壮次さんに、尊徳の生き方から現代人が学ぶべき点についてお伺いしました。

 

経世済民の精神

(木村)

かつて小説家の武者小路実篤は、二宮尊徳について次のように謳っています。
「二宮尊徳のことをまるで知らない人が日本人にあつたら、日本人の恥だと思ふ」

また、〝日本の資本主義の父〟と称された渋沢栄一は、「私は、あくまでも尊徳先生の遺されたる四ヶ条の美徳(至誠、勤労、分度、推譲)の励行を期せんことを希うのである」と述べています。

さらに真珠の養殖に世界で初めて成功した御木本幸吉は、尊徳の生き方に深い感銘を受け、「海の二宮尊徳たらん」との思いで事業に取り組んできました。

この他にも多くの人物に影響を与えてきた二宮尊徳ですが、その功績が広く世に知られるようになったのは、明治天皇の存在が大きく関係しています。その端緒となったのが、相馬藩藩主相馬充胤が藩士富田高慶の書き上げた『報徳記』を明治天皇に献上したことでした。

一読、これこそ日本が新たな船出を迎えるに当たって必要な書であると判断された明治天皇は、すぐに全国の県知事に対して読むように指示。これによって全国の役人を通じて世間一般の人々にも広まっていったのです。

『報徳記』には尊徳の事績が数多く挙げられていますが、そこから浮かび上がってくる尊徳の人生をひと言で表すと、世の中の人々を救う歩みだったと言えるでしょう。『報徳記』には日本の原点とも言える、経世済民の精神が深く刻み込まれているのです。

至誠を貫いた復興事業

経済的センスにも秀でていた尊徳は、その才覚を田畑の獲得の仕方で発揮しました。当時、田畑を増やす方法は、荒れ地を開拓するか、田畑を買うかの2つでしたが、尊徳が重点を置いたのは開拓でした。なぜなら開拓した新田には7年間年貢がかからないというメリットがあったからです。

さらに7年間が過ぎると、今度はその田を小作に出すことで小作料を得、それを元手に田畑を買い足していきました。その繰り返しによって尊徳は34歳にして家の再興を果たしたばかりか、30歳になる頃には村でも指折りの大地主となったのです。

そして、その評判を聞きつけたのが大久保忠真公でした。忠真公は尊徳を藩政に参画させ、後々藩の財政再建を託したいと考えます。名君の評判が高かった忠真公は、藩内の悪習を正し、万民の心配を取り除きたいという心を常々抱いていたのです。

ところが、群臣たちは「農民の指示に従うことなど絶対にできない」と挙(こぞ)って反対。そこで忠真公は群臣を納得させるために、それまで誰もできなかった仕事を尊徳に与えることで、その実力を試させようとしたのです。

その仕事というのは、下野国にある旗本・宇津家の桜町領復興事業でした。土地は痩せ、田畑は荒れ放題、しかも人心も荒んでいた桜町領には、これまで何度か家臣が送り込まれ、数千両の金が投じられるも、悉く失敗に終わっていたのです。

尊徳はこの難題に難色を示しつつも、仕法の一切を任せていただけるならば、10年で必ず成功に導いてご覧にいれますと答えました。実際、尊徳は下野国に着任以来、荒廃した土地を起こし、困窮した農民を救済するとともに、善行の者には褒美を与え、正直者を遇するなど仁政を施しました。

さらに人の踏み行うべき道を説き、農業に精通するよう農民たちを教え導くことで、農家の戸数は徐々に増えていき、荒廃地は次々と開墾されていったことは『報徳記』に詳しく記されています。

天道と人道

尊徳が復興事業で掲げた改革の柱は「至誠、勤労、分度、推譲」の4つですが、それ以外にも例えば、「小を積んで大を為す(積小為大)」という教えもしばしば述べています。これは尊徳が17歳の頃に、不用になった僅かな土地を開墾し、棄てられていた稲の苗を植えつけたところ、秋には一俵余の実りを得たという実体験に基づいた教えでした。

「およそ小を積んで大を為すのは自然の道である。こうした努力を続けていけば、やがては父祖の家を興し、祖先の霊を安んずることが必ずできるだろう」と喜んだ尊徳は、その一俵余の実りを種として、数年で多くの収穫を得ることに成功し、家の再興を果たす第一歩としたのでした。

尊徳は「積小為大」について語る上で自然の道(天道)を説く一方、人道という言葉も好んで使っています。尊徳のいう人道とは、一所懸命に働き、多くの富をつくって社会に還元すること、つまり「世の中のために尽くす」ことでした。

すべてを天道に委ねていては、物事は廃れていくだけです。それは一度つくった堤防を自然のままに任せていては、いずれ決壊して意味をなさなくなることからも明らかでしょう。

人は何のために生きるのか。尊徳はその答えをどこまでも人道、即ち「世の中のために尽くす」ことにその解を求めてきたように私は思います。尊徳が生きた時代というのは生まれながらにして身分が固定され、職業の自由は認められていませんでした。

その中にあって自分に与えられた仕事に精を出し、世の中をよくしていくことの大切さを『報徳記』は物語っているのです。

これは何も尊徳の生きた時代に限ったことではありません。いつの世にあっても人道を尽くして生きること。これこそ本当の意味で豊かな人生を送れる近道であることを、尊徳は教えてくれていると私は思うのです。

(本記事は『致知』2018年1月号の特集「仕事と人生」の記事より一部抜粋したものです。あなたの人生や経営、仕事の糧になる教え、ヒントが見つかる月刊『致知』の詳細・購読はこちらから)

二宮尊徳(にのみや・そんとく)
1787年相模国栢山村(現・神奈川県小田原市)に生まれる。1811年小田原城下で武家奉公する。1822年桜町領(現・栃木県真岡市)仕法開始。1842年幕臣に登用される。その生涯に600余村の復興にあたる。1856年死去。

木村壮次(きむら・そうじ)
1944(昭和19)年東京都生まれ。東京都立大学卒業後、経済企画庁(現・内閣府)に入庁。退職後は東洋大学現代経営学部教授を務める。近著(訳書)に『超訳 報徳記』(致知出版社)がある。

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