不敗の名将・宮崎繁三郎 ~ノモンハン事件からインパール作戦まで唯一敗けなかった男~

日本の危機を救った21人の偉人たちの生き方を、上智大学名誉教授の故・渡部昇一氏が紐解いた人物伝『忘れてはならない日本の偉人たち』(渡部昇一著/弊社刊)。本書の中から、ノモンハン事件やインパール作戦など大東亜戦争での激戦を「無敗」で戦い抜いた名将・宮崎繁三郎のエピソードをご紹介いたします。

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「日本陸軍の良心」

かつて「日本陸軍の良心」と称えられた指揮官がいました。宮崎繁三郎(18921965)中将です。

満蒙(まんもう)国境を巡るノモンハン事件や大東亜戦争におけるインパール作戦といえば、熾烈を極め、日本軍が塗炭(とたん)の苦しみを味わった戦いとして有名ですが、宮崎中将は負け戦が続く中にあって果敢に戦い抜き、様々な軍功や逸話を残し、部下からの信望も極めて厚いものがありました。

戦史上、永遠にその名を刻むべき名将の一人です。

宮崎中将は岐阜県に生まれました。陸軍士官学校、陸軍大学校卒業後、1933年には満洲事変の熱河(ねっか)従軍で大隊長として軍功を挙げ、功三級金鵄(きんし)勲章を受章しています。日露戦争を戦った乃木希典(のぎ・まれすけ)大将ですら功一級であることを思えば、その手柄の大きさが分かるというものでしょう。

さらに1939年、モンゴルと満洲との国境で発生したノモンハン事件には、陸軍大佐歩兵第16連隊長として参戦。ソ連軍の圧倒的な兵力により周りの部隊が次々に壊滅する中にあって、宮崎中将率いる16連隊は最後まで奮闘し、唯一、勝ち残るのです。

しかも、自ら占領した土地に部隊名や日付けを彫った石碑を埋め込み、後に、その土地が日本の陣地であることを主張できるようにするという咄嗟の機転にも驚かされます。実際、このことが国境を決める上で大いに有利に働いたとされています。

インパール作戦の殿(しんがり)を果たす

しかし、宮崎中将の指揮官としての面目躍如たる働きと功績は、何よりもインド解放のインパール作戦に顕著というべきでしょう。

1944年3月、宮崎中将は第31師団・歩兵団長としてこの作戦に参戦します。インパールへの補給路でもあるコヒマを占拠することが第31師団の重要な任務でした。

しかし、イギリス軍の激しい反撃で、ついに食糧や弾薬の補給が断たれてしまいます。戦地は生き地獄でした。険しい山岳に投入されたインパール作戦の部隊は餓死者や病者が相次ぎ、文字どおり万事休すの状態に陥るのです。

だが、インパール作戦の司令官である牟田口廉也(むたぐち・れんや)は決して作戦を中止しようとはしませんでした。この時、第31師団長の佐藤幸徳は軍の方針に強く抗議して独断、撤退を開始します。しかし、宮崎中将の歩兵団だけは現地に残り、最後まで持ち場を死守するよう命じるのです。

ただでさえ危機に直面している歩兵団にとって無謀というほかない命令でしたが、歩兵団はこの苛酷なギリギリの状態で、撤退命令が出るまでの約1か月、持久戦を耐え抜き、イギリス軍を制止するのです。

特筆すべきは、この撤退に当たっての宮崎中将の卓越したリーダーシップです。

陣頭指揮に当たるのみならず、自分の貴重な食糧を部下たちに分け与え、負傷兵を載せた担架は自らも手で担ぎました。撤退の道中、負傷兵を見つければ隊の所属に関係なく収容し、遺体があれば丁寧に葬りました。イギリス軍の追っ手が目の前にまで迫る中、歩兵団からは一人の負傷兵も置き去りにせず、餓死者も出さず、見事に殿(しんがり)の役割を果たし、撤退を完了させるのです。

絶体絶命のビルマ戦線での敵中突破

インパール作戦後の19454月、宮崎中将は今度はビルマ戦線の第54師団長としてインド洋に面したイラワジ川周辺の戦いに臨むことになります。ここでもイギリス軍の師団を壊滅させるなど手柄を立てるのですが、あろうことか54師団の上位組織であるビルマ方面軍の司令官が突然逃亡するのです。

指揮系統を失った54師団は完全に孤立。山中に逃げ込んだものの、餓死の危機と直面し、宮崎中将はやむなく師団を分散して敵中突破する作戦に打って出ます。兵の多くを失いながらも、最後まで果敢に戦い続け、脱出に成功しました。

敗戦後はイギリス軍の捕虜となりますが、部下の不当な扱いについては断固として抗議し、決して泣き寝入りすることのない胆力の持ち主でした。

大東亜戦争後半、日本軍はついに負け戦のサイクルから脱することができないまま、敗戦を迎えました。宮崎中将はその中で勝ち続けた稀少な名将の一人でした。

加えて、高く評価されるべきはその忠誠心と部下思いの人柄、高潔な人格です。インパール作戦から帰還した兵士たちは無謀な戦いを強いた牟田口廉也司令官の名前を聞くと激高し、逆に宮崎中将の名前を出すと怒りが収まったとも言われています。

戦後は小さな瀬戸物屋の店主として生涯を終える

宮崎中将で感心するのは、それだけではありません。日本に帰ってきてからの生き方、これも実に立派でした。

東京・下北沢に小さな瀬戸物の店を構え、自らの手柄は一切口にすることなく、一商店の店主として静かに一生を送るのです。長男の宮崎繁樹氏が明治大学総長を務められたことを思えば、家庭人としても立派だったことが窺えます。

1965年、73歳で生涯を閉じる時、朦朧(もうろう)とする意識の中で

「敵中突破で分離した部隊を間違いなく把握しているか」

と何度も口にしていたといいます。おそらくビルマ戦線で多くの部下を死なせてしまった忸怩(じくじ)たる思いと責任感が、そういう末期の言葉となって出てきたのだと思います。言葉には出さずとも、終生、部下のことを思い続けていたのです。

日本の戦後の発展を築いた人物の中には、このような優れた名将がいました。その事実を多くの人に知っていただきたいと願わずにはいられません。


(本記事は弊社刊『忘れてはならない日本の偉人たち』〈渡部昇一・著〉から抜粋・編集したものです) 

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◇渡部昇一(わたなべ・しょういち)
昭和5年山形県生まれ。30年上智大学大学院西洋文化研究科修士課程修了。ドイツ・ミュンスター大学、イギリス・オックスフォード大学留学。平成13年より現職。著書多数。最新刊に『渡部昇一の少年日本史』(致知出版社)。平成29年死去。

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