『千の風になって』が国民的大ヒットとなった新井満が語る父母の想い出

幼友達のために作者不詳の英語の詩を訳し、作曲した『千の風になって』が国民的ヒットになった作家・作曲家・プロデューサーの新井満さん。新井さんの人生の原点ともなった感動のエピソードを、詩人・書家である相田みつを父に持つ相田みつを美術館館長の相田一人と語り合っていただきました。

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突然逝った父

(新井) 

いろいろな方の人生を見ても、偉い親を持つのは結構大変なんだろうなと思いますね。いい面と悪い面と両方あるんでしょうけど、ただ簡単に相田みつをの息子にはなれませんからね。だから相田さんはそういう星の下に生まれたエリート中のエリートなんだろうなと。

お父様と一緒に過ごされたのは、おいくつまででしたか。

(相田) 

大学進学のために故郷の足利を離れましたので、18歳までです。

まあ、父は全然偉くはないですが、私も若い頃は複雑な思いがありまして、反抗期が長かったんですね。私が36歳の時、父が67歳で亡くなりましたが、ある意味それまでずっと反抗期で、反抗する相手がいなくなって突然終わったところがあります。生きていたら、いまだに反抗期だったかもしれません。

 (新井) 

父親への反抗というのは、私は経験したくてもできなかったからうらやましいです。私にとってはどんな親父でも生きていてくれたらありがたい。うちの親父は私がまだ乳飲み子の頃に亡くなりましたから。

(相田) 

お父様はどういうことでお亡くなりに……。

 (新井) 

昭和22年、病気で入院していたわけです。といっても、たいした病気じゃなくて、明日退院だという日、家族がお見舞いに行ったら、「よし、明日退院したらみんなで寿司を食べに行こう」なんて話していたそうです。それから、看護婦が来て注射を打った直後から容態が急変し、あっという間に亡くなったといいます。

 それは打たなくてもいい注射だったのではないかと思いますね。いまだったら医療ミスで裁判沙汰でしょう。しかし戦後の混乱期で、入院患者の1人が亡くなったくらいでは事件にもならなかった。

私には7つ上に兄もいましたから、まだ幼い子ども2人を抱えて、おふくろも困ったと思います。でも、ありがたいことに助産婦をやっていましたから、戦後のベビーブームで一晩に何人も新生児を取り上げて、そうやって子どもを育て大学まで上げたのです。

(相田) 

お父様はおいくつで亡くなられたのですか。

 (新井) 

まだ42歳でした。

 私、親父のことはずっと恨んでいたんです。親父さん、なぜあなたは幼子2人を残して早死にしたのかと。それにしても最期の言葉が「明日、みんなで寿司を食べに行こう」というのはあまりに切ないですよ。だから大人になってもずっと親父のことはよく思っていなかった。

42歳で芥川賞をもらった後、ある禅宗のお坊さんと対談する機会をいただいたんです。その時、父親のことに話が及んで、「私は親父を恨んでいるんです」と話したわけです。そうしたら、そのお坊さんはこう言いました。 

「その気持ちはよく分かる。しかし、お父さんも乳飲み子を残して死ななきゃいけないと思った時、どれだけ無念だったか。もしかしたらお父さんは死ぬ間際、生まれたばかりの新井さん、あなたに自分が本当は生きるはずだった余命を託したのかも分かりませんよ」

10億人対1人

(新井) 

私の母はいつも仕事をしていました。

もちろん亭主が早く死んで働かざるを得ないこともありましたが、亭主に関係なく一貫して職業婦人でした。明治の女でしたが、10代で助産婦の国家資格を取って直後には看護婦の資格も取って、20代の後半には「産婆」と書いたでっかい木製の看板を掲げて開業しているんですよ。91歳で亡くなるまで現役でしたが、新潟市内数千人の新生児を取り上げたそうです。親子二代はざらで、三代取り上げたケースも結構あるらしいですから、かなり凄腕の職業婦人でした。

だから「ただいま」「お帰り」という関係ではなく、私はおふくろの後ろ姿しか見ていない。なんだかいつも忙しそうでした。

(相田) 

新井先生のお母様はお父様の役割も兼ねていらっしゃったわけですから……。

(新井) 

おふくろのことで心に残っているのは、やはり亡くなった時のことです。

1994年の2月、リレハンメル冬季五輪(ノルウェー)の閉会式で次期開催地である長野五輪のデモンストレーション(告知)をすることになっていて、当時電通に勤務していた私がその総合プロデューサーでした。いよいよ本番のため現地に向かおうとしていたその日の朝、兄からおふくろが危篤だという知らせが入ってきました。

やはり迷いました。ノルウェーに行けば衛星放送で10億人が私の仕事を見てくれる。男として一世一代の大仕事です。一方、新潟ではたった1人のおふくろが死にかけている。10億人対1人という究極の選択です。時間にすればわずか30秒くらいだったでしょうが、あの時ほど悩んだことはなかったですね。 

(相田) 

それで、新井先生はどちらへ行かれたのですか。

(新井) 

こういう究極の選択には大義名分というか、理屈がないと困ります。私が考えたその時の理屈はこうです。「新井満という人間を産んだのは誰だ」と。新潟で死にそうになっているおふくろが産んでくれなかったら、そもそもこの逡巡もないわけです。それでノルウェー行きはすべてキャンセルして、新潟行きのとき号に飛び乗りました。つまり10億人を捨て、1人を選んだわけです。

その時、私は会社をクビになることも覚悟しましたよ。総合プロデューサーでありながら敵前逃亡するわけですから。「それでいいんだな? よし、それでいい」と思って新潟に向かいました。結果的には同じチームのメンバーに助けられ、クビにはなりませんでしたがね。

(相田) 

世界中のスポットライトを浴びるよりも、たった一人のお母様を看取るほうを選ばれて、なんだか涙が出てきちゃいますね。

(本記事は『致知』2008年6月号「人生の道標」から一部抜粋・編集したものです。あなたの人生や経営、仕事の糧になる教え、ヒントが見つかる月刊『致知』の詳細・購読はこちら

◇新井満(あらい・まん)

昭和21年新潟県生まれ。45年上智大学卒業後、電通入社。映像プロデューサーとして活躍する一方、51年に発表した組曲『月山』をはじめ、シンガー・ソングライターとしても活躍。小説家の顔も持ち、63年『尋ね人の時間』で第99回芥川賞受賞。その後、作者不詳の英詩を『千の風になって』として訳出・作曲して私家版のCDを制作、口コミで多くの人に歌い継がれ、平成19年日本レコード大賞作曲賞を受賞。自由訳シリーズを含め著書多数。

◇相田一人(あいだ・かずひと)

昭和30年栃木県足利市に、書家・相田みつをの長男として生まれる。出版社勤務を経て、平成8年東京に相田みつを美術館を設立、館長に就任。

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