2019年05月19日
1995年、35歳の時に龍角散の8代目社長に就任した藤井隆太さん。当時「火の車」だった経営を立て直すことに成功した理由として、「必死にやり抜いた20代の経験」があると若き日々を振り返ります。
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生ぬるい環境で人は育たない
〈藤井〉
意外に思われるかもしれないが、私の20代は、前半の5年間はプロの音楽家として、後半の5年間はビジネスマンとして、それぞれの道を歩んできた。
両親が音楽好きだった影響で、私は3歳の頃からヴァイオリンを弾き始めた。高校は桐朋学園を選び、難関を何とか潜り抜け入学を果たした。
その時に先代社長である父親からはっきりと言い渡された。
「一族経営だからといって、必ず世襲でやることはない。だから、会社のことはもう考えなくていいから、音楽をやりたいなら悔いのないようにやれ。その代わり、余計な援助はしないから、ちゃんとプロとして食えるようになれよ」
実際、高校に入ると、そこはまさしく実力社会。約100名のオーケストラが3つのランクに分かれている。いわば、1軍から3軍までが日々激しい競争を繰り広げているのだ。
甘やかされた生ぬるい環境で人は育たない。桐朋学園という厳しい環境の中でプロ根性を鍛えられたことが私を強くしてくれた。
どんな時も最高の結果を出す
中学まではヴァイオリンを弾いていたが、高校からフルートに転向した。フルートの師匠は、NHK交響楽団の首席奏者を務めた小出信也先生だった。
師匠からは、「プロの演奏家たる者、いついかなる時も最高の演奏をしろ」という教えを徹底的に叩き込まれた。
桐朋学園大学時代には時折、師匠に地方公演に連れて行ってもらったが、その公演後の宴会でのこと。散々お酒を飲まされて酔っ払っているところに、師匠が突然、「楽器を持ってこい。吹いてみろ」と言ったのだ。
私が下手な演奏しかできずにいると、師匠はフルートを手に取り、見事な音色を奏でた。
「楽器は武士の刀と同じだ。たとえ酔っ払っていても、時差ボケだとしても、それを言い訳にまともな演奏ができませんでしたでは、話にならない。いつ本番が来ても大丈夫なようにコンディションを整えておけ」
いついかなる時も最高のパフォーマンスを発揮する。この師匠の教えは音楽のみならず、あらゆる職業に通じる「プロとしての心得」ではないだろうか。
最善策を必死に考える
大学卒業後、1年間のフランス留学を経て、帰国してきたのは1984年。そんな時、父親から「おまえ、興味あるならビジネスも経験してみるか」と声を掛けられた。
私はやるからには中途半端ではなく、とことんやろう、一番厳しい会社で働こうと思い、20年以上携わってきた音楽を辞めて、遠い親戚にあたる小林製薬に新入社員として同期40名とともに入社した。
基礎訓練を終えた後、私は薬局回りをする営業部に配属された。研修を受けたばかりの新入社員が一人で行って簡単に取れるものではないだろう。しかし、私は音楽の仕事を通じて、厳しい現場を何度も経験していたから、どんなに断られても怯むことはなかった。
成果を上げるための最善策を自分で必死に考え、私は入社1年目から営業成績トップに立ち、2年目以降もさらに高いノルマをクリアし続けた。
大切な視点は、自分の強みは何なのか、人と差をつけるためにはいまの自分に何が必要か。それを見つけて、精いっぱいの努力を注ぎ込むことだと思う。
(本記事は月刊『致知』2015年12月号 連載「二十代をどう生きるか」から抜粋・編集したものです。あなたの人生や経営、仕事の糧になる教え、ヒントが見つかる月刊『致知』の詳細・購読はこちら)
藤井隆太(ふじい・りゅうた)
昭和34年東京都生まれ。桐朋学園大学音楽学部卒業後、60年小林製薬入社。62年三菱化成工業(現・三菱化学)入社。平成6年龍角散に入社し、翌7年より現職。