2019年04月07日
いま女性の間でブームとなりつつある『論語』。安岡正篤師の令孫にして、こども論語塾の火付け役となった安岡定子さんと、『呻吟語』(しんぎんご)や『菜根譚』(さいこんたん)などの翻訳を手掛け、中国古典を分かりやすく現代に広めている祐木亜子さんに、『論語』を学ぶ楽しさについて語っていただきました。
『論語』には必ず 自分に合った答えがある
(祐木)
『論語』を弾圧していた中国もいまは『論語』を見直す機運があるようですし、日本も戦後、『論語』や先人の教えを学ぶ風潮が希薄になりましたが、またこうして『論語』ブームのようなものが起きています。で、その火付け役が安岡さんですよね。
(安岡)
そんな、全然。とんでもないですよ(笑)。私は『論語』や『孟子』がベースになっている儒学は、もともと日本人の感性に合うところがたくさんあると思うんです。
それが、例えば核家庭になって教えてくれる年長者と一緒に暮らさなくなったとか、学校教育のあり方が変わったとか、理由はいろいろあると思いますが、徐々に触れる機会が少なくなっていった。少しずつ失われてきて、これではいけないと気がつき始めたのが、この数年ということじゃないかと思います。
だから、突然の『論語』ブームではなくて、日本人らしい感性が『論語』によって、じんわりと呼び起こされてきたということではないでしょうか。
(祐木)
特にバブル崩壊以後ですね。効率だけを求めてもダメだって。物質的に豊かになっても幸せじゃないんだって、心の渇きを感じるようになったんだと思います。そこで人間としての生き方の指針を求め始めたんでしょう。
(安岡)
人それぞれ抱えている問題や悩みって違いますよね。だけど、『論語』には年齢や職業、性別などに関係なく、どの人にも当てはまり共感できる言葉が必ずあります。
(祐木)
だからこそ、『論語』を男性だけの書物にしちゃもったいないですよね。特にいま女性が社会に出て活躍していますから、部下を育てるとか、人間関係をどうやってよくするとか、そういう部分で『論語』が女性にも求められていると思うんです。
(安岡)
しかも女性でも、おっしゃるとおり働く女性から就職活動中の女の子、あるいは子育て中のママなど、それぞれの立場に対する答えが必ずあります。それが『論語』の魅力だと思いますね。
素通りした言葉が 光り輝き出す時
(祐木)
これも『論語』の魅力の一つでしょうけれども、若い時に読んで素通りしていた言葉が、歳月を経るとすごく響くことってありませんか?私にとってそれは、顔淵篇にある「死生命あり」(生死は天命によるもので、人の力ではどうすることもできない)でした。有名な言葉だから知ってはいたのですが、最近になってこの言葉の深さを実感したんです。
というのも、2年前に私の友人の7歳の子供が交通事故で亡くなったんです。いつも写真を送ってもらったりしていて、私はとってもその子が好きだったんですね。
だから、その訃報を受けて、私は納得がいきませんでした。何の非があるわけでもないのに、なぜ突然その子に死が訪れたのか。それを自分の中で処理できずにいました。
そんな私を見て別の友人が「人の生き死には人間の力ではどうにもならないんだよ」と言ってくれて。その後、「死生命あり」という『論語』の言葉に出合って、ああ、本当にそうだなと。人の生き死には人智が及ばないものなのだと、改めて教えてもらいました。
今回の大地震もそうですよね。大学時代に仙台に住んでいましたから、被災した知人もいるし、親御さんを亡くした友人もいます。ものすごくやるせない思いがしましたが、あの時に真っ先に浮かんだのもこの言葉でした。
(安岡)
私が年を重ねるごとに感じ入るのは、「人の己を知らざるを患えず、人を知らざるを患う」(他人が己を評価しなくても憂慮しない。人を見る目のないことは憂慮しなければならない)ですね。
それはたぶん祖父の影響が強いと思います。祖父の淡々とした生き方を見てきたこともありますし、評価される、されないということを自分はもちろん、私たち家族にも求めませんでした。儒学の基本は己を修めるところから始まって、その大きなポイントは内省ですよね。要するに、自分はどうなのか、と。自分がよりよくなることや豊かな人間になることが大切であることを、一番身近にいて実践していた人だったと思います。だからこの言葉に触れると生前の祖父の姿が思い起こされ、自らの生き方を通して私たちに「こうあるべきだ」と教えていたんじゃないかと思うのです。
この一言で『論語』を マスターできる
(安岡)
「学んで時に之を習う、亦説ばしからずや。朋有り、遠方より来る、亦楽しからずや。人知らずして慍らず、亦君子ならずや」
これは『論語』の冒頭に出てくる章句ですが、お子さんたちにはこれをマスターすれば、『論語』のすべてを体得したも同じですと言っているんです。
(祐木)
ああ、私もこれは好きですね。どのように教えられているのですか。
(安岡)
まず「学んで時に之を習う」の「之」の部分にいま自分が頑張っているものを当てはめてみてください、と。例えばサッカーだとすると、「毎日練習しているとどうなるの?」。するとほとんどが迷わず「うまくなるに決まってるじゃん」って言うんです。
そこで「目標を持って頑張り続けていると、いつか上達したことを実感できる瞬間がくる。そんな体験ができたら嬉しいでしょ? これが最初の“学んで時に之を習う、亦説ばしからずや”ですよ」と。
次の「朋有り、遠方より来る亦楽しからずや」は、「そうやって目標に向かっている時に、一緒に頑張り、語り合える友達がいたら素晴らしいですね」と。一生付き合っていける本当の友達をつくりましょうといった話をするんです。
3つ目の「人知らずして慍らず、亦君子ならずや」。ここは肝心なところで、「一所懸命頑張っているのに、認められなかったり褒めてもらえなかったりする。そんなことない?」。そう質問すると「ある、ある」って反応が凄いんです(笑)。ゴールを決めたのにママが見ていてくれなかったとか、もっと頑張れと言うとか、ここぞとばかりにいろいろなことを言います。
それを受けて私が「先生の年になっても褒めてもらったら嬉しい。だけど、そういう時ばかりではありません。褒められないからと言って、サッカーやめる?」と聞くと、「絶対やめない」という答え。「どうして?」と聞くと、「だって好きだもん。うまくなりたいもん」と答えます。お子さんたちの答えはごく当たり前です。褒めてもらうためにサッカーをするのではなく、自分のために頑張っているのです。「褒めてもらえなくても認められなくてもがっかりせずに、理想を持って頑張り続けていくことが大切。そういう人になりましょうね」と話します。
学ぶ喜びとよき友達を持つ喜び、頑張り続けることの大切さ、この3つを覚えたら『論語』一冊読んだも同然、この3つのことを孔子先生はいろいろと言葉を換えて『論語』の中で伝えているんですよと。ついてはこれを実践するにあたっては、「仁」の心を忘れないでねと教えています。
(本記事は2011年12月号「孔子の人間学 」から一部抜粋・編集したものです。あなたの人生、仕事の糧になる言葉、教えが見つかる月刊『致知』の詳細・購読はこちら)
◇祐木亜子( ゆうき・あこ)
山口県生まれ。東北大学経済学部卒業後、中部電力での4年間のOL生活を経て、渡中。西安の大学に留学後、上海の弁護士事務所で通訳・翻訳業務に従事。帰国後は現代中国について研究を続ける傍ら、中国古典の翻訳や講演・執筆活動を行う。著訳書に『中国古典の知恵に学ぶ菜根譚』(ディスカヴァー21)『心に響く呻吟語』(日本能率協会マネジメントセンター)ほか多数。
◇安岡定子(やすおか・さだこ)
昭和35年東京都生まれ。二松学舎大学文学部中国文学科卒業。平成16年からこども論語塾を始め、現在「銀座・寺子屋こども論語塾」、宮城県塩釜市で開催する「一森山こども論語塾」など、19の教室で講師を務める。祖父は東洋思想家の安岡正篤師。著書に『素顔の安岡正篤』(PHP研究所)『親子で楽しむ こども論語塾』(明治書院)『みんなの論語塾』(講談社)『子や孫に読み聞かせたい論語』(幻冬舎)などがある。