2023年03月20日
2018年、オウム真理教の一連の事件を教祖として主導した松本智津夫死刑囚、教団幹部だった6人の死刑囚の刑が執行されました。地下鉄サリン事件から今年で28年――。その傷跡は多くの被害者の方々に刻まれ、消えることはないでしょう。サリンによって奥様が意識不明に陥りながら、事件の容疑を受けた河野義行さんに、警察・マスコミという巨大な力に屈することなく戦い続けた先に見えてきたものについて伺いました。
心の位置を高く持つ
平成6年6月27日深夜、裏庭からカタカタと妙な音が聞こえてきました。なんだろうかと思って外へ出てみると、飼っていた犬が口から白い泡を吹いて激しく痙攣を起こしているのです。もう一匹の犬はピクリとも動かない。
「母さん! 警察に通報したほうがいいんじゃないか」中にいた妻へ声をかけましたが、返事がありません。部屋に戻ってみると、妻が犬と同じように口から泡を吹き、痙攣状態になっている様子が目に飛び込んできました。
すぐに救急通報をしたのですが、これが松本サリン事件の第一報、つまり「第一通報者」と、後に呼ばれるようになるわけです。私も視覚の異常をきたし、激しい吐き気に襲われる。足元がふらつき、立っていられない状態になって、病院に運ばれました。
翌日警察は記者会見をし、被疑者不詳の殺人罪で会社員宅を強制捜査した。結果、殺傷力のある薬品類数点を押収した」と私の実名をマスコミに公表したのです。私は殺人罪の容疑をかけられ、これを機に報道が一気に過熱していきました。
例えば事件が起こる20年前、京都で薬品会社に勤めていた事実を摑むと、薬品に精通していたらしい、そしていつも薬品を取り扱っていたらしいという推測の記事が載るのです。そんなことが繰り返されるうち、世間の人にも間違った情報が刷り込まれていき、誰もがこの会社員がやったんだと思ってしまうわけです。「らしい」が飛んでしまうんです。そして大勢いる人の中には「俺は許さないぞ」と制裁に走る人が出てきます。
次の日から、自宅には無言電話やいやがらせの電話が殺到しました。電話を取っていたのは、主に高校1年生の長男です。入院中の私の元へ悲鳴を上げてやってきました。「お父さん、電話がすごい。番号を変えてほしい!」
私はこう答えました。「電話番号を変えるのは簡単なことだ。けれどもそれは現実から逃げることになる。逃げていたら俺たち家族は潰されるぞ。大事なのは、どんな電話であっても正面から真摯に受け答えをすること。受話器を取ると、人殺しとか、さっさと本当のことを吐けとか、いろんなことを言われ、つらいかもしれない。でもそういう電話であっても逃げない。正面から受け止めていく。
そしてもう一つ大事なこと。それはいやがらせをしてくる人たちより、心の位置を少し高く持つこと」。
圧倒的に不利な状況であっても、心の位置は自分で任意に設定ができるのです。ボコボコにやられても、きょうは許してあげると言えるんです。これらをずっと続けたんです。
結果的に、事件前と事件後の電話番号は変わっておりません。子どもたちはその約束を守り抜いてくれたということです。つらい途中で逃げることなくそれを通してくれたことが、彼らの大きな教訓にもつながったと思います。
世の中、それほど捨てたものじゃない
当時の捜査本部は、明らかにしてはいけないことをしていました。
高校1年の子どもに対して切り違え尋問をやったのです。
「君のお父さんは罪を認めている。君だけ隠していてもどうなるものでもない。みんな喋りなさい」。
もし長男がその雰囲気に呑まれて、「そうかもしれない」と、一言言ってしまえば、私は間違いなく逮捕されていました。
また、医師からは事情聴取は2時間が限度という診断書が出ていましたが、取り調べは延々7時間にも及びました。担当刑事が入ってきましたので「こんなことが許されるのか」と抗議をしたら「これも捜査の手法です。あんたの潔白はあんたが証明しなければいけない」と言います。
けれども自分が何もしていないということをどうやって証明できるのでしょうか。私はいろいろな方法で証明を試みました。できないんですね。何もしていないのだから、証拠となるものが何も存在しないのです。それを世間やマスコミは要求してくるのです。
動きが変わるのが翌年1月1日。山梨県の上九一色村でサリンが分析され、その頃からオウム真理教の存在が少しずつ表に出てきました。しかし長野県警は依然として、河野クロ説を変えない。私は記者会見をし、反省のないマスコミに対して提訴の用意があることを表明しました。
3月20日には地元紙に対して損害賠償請求を行いました。その時、会見に集まっていた大勢の記者のポケットベルが一斉に鳴り始めたのです。東京で地下鉄サリン事件が起きたのでした。そして私の疑惑が消去法でなくなっていきました。
私は警察当局に「河野、事件に関与せず」と公の場で発表してもらいたいと要求し、6月12日に発表が行われました。1年かかって、やっと被害者が被害者になった。自分にとって、とてもつらい1年間でした。
そんな中でなんとか私が耐えてこられた理由、それはやはり妻が生きていたことが一番大きいと思います。
妻は事件が起こった時に一時心停止をし、それ以降、12年と6か月、意識不明の状態が続いています。何も喋ってくれない。身体も動かせない。そういう状態ではありますが、ともかく生きている。そこに行けば会える。このことが自分にどれだけ力を与えてくれたかしれません。人には命がある、そのことだけで誰かを支えることができるのです。
そして10年以上がたってから、私に自白を強要した警部が、実は体を張って私の逮捕を阻止してくれた方であったことが分かりました。
人は、本当に知らないところでいろいろな支えを受けながら生きている。この世の中、それほど捨てたものじゃないな、そんな思いで現在を過ごしています。
(本記事は月刊『致知』2006年8月号 特集「悲しみの底に光るもの」より一部抜粋したものです)
◇河野義行(こうの・よしゆき) ◎各界一流プロフェッショナルの珠玉の体験談を多数掲載、定期購読者数No.1(約11万8,000人)の総合月刊誌『致知』。あなたの人間力を高める、学び続ける習慣をお届けします。 たった3分で手続き完了、1年12冊の『致知』ご購読・詳細はこちら。 ≪「あなたの人間力を高める人間力メルマガ」の登録はこちら≫
1950年愛知県生まれ。名城大学理工学部卒。1994年6月に起きた松本サリン事件の被害者の一人で、第一通報者。 警察の家宅捜査、事情徴収を受け、マスコミにも容疑者扱いで大きく報道された。 妻はサリンの後遺症のため意識が戻らないまま14年後に死去。 現在は鹿児島に移り住み、講演活動や犯罪被害者支援を行っている。
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