2017年02月11日
東京の中野区にある「愛児の家」は、
戦後しばらくして、
無名の主婦・石綿さたよさん
によって設立されました。
石綿さんは、戦争孤児たちを不憫に重い、
自宅に引き取って
養育するようになります。
娘の石綿裕さんにその頃の
思い出を語っていただきました。
───────「今日の注目の人」───
☆ 孤児たちの幸せのために生きる ☆
石綿 裕(「愛児の家」主任保育士)
※『致知』2017年3月号【最新号】
※特集「艱難汝を玉にす」P50
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──多い時には、どのくらいの
孤児たちがいたのですか。
そうですね。
100人以上が生活していたでしょうか。
運動会までやっていたくらいですから。
──一軒家に100人ですか。
ええ(笑)。夜寝る時なんか
軍隊から払い下げの粗末なお布団を
一階と二階の広間に
ダーッと並べるんです。
あと小さい部屋にもパラパラと。
ただ、私たちは三人姉妹でしたので、
そこは母が配慮してくれて、
女中さんの部屋を
使わせてくれましたけどね。
母はその頃から幼いお子さんと
一緒に寝ていました。
いろいろな方から
「よく我慢しましたね」
と言われますが、
私はそれが当たり前
だと思っていました。
でも、母は大変だったことでしょう。
朝四時頃、誰にも
気づかれないようにそっと起きて、
大きな鍋で皆の分の食事を作りました。
ボランティアで
手伝ってくださる方もいましたが、
それでも重労働です。
当時、駐留軍から配給になった
安いトウモロコシの粉があって、
母はそれに熱湯を注いでドロドロにして、
ワカメか何かを入れて
魚臭い代用醤油を使って
味つけをするんです。
子供たちはそれを
「でれん」とか「どろん」とか
呼んでいて(笑)、
決しておいしいとは
言えませんでしたけど、
それで何とかひもじさを
凌いでいました。
──心を開こうとしなかったり、
集団生活に馴染めなかったりする
孤児もいたのではありませんか。
そりゃあいますよ。
黙って出て行っちゃう子もいました。
家のものを勝手に持ち出して
上野に行って売ってくる、
なんていうのは日常茶飯事。
だけど、面白かったのは……
※石綿さんのお母さんは、
なぜ孤児たちを引き取って育てようと
思うようになったのでしょうか。
そこには士族だったお祖父さまの
教えがありました。
詳しくは最新号をお読みください。