戦争孤児を育てた主婦の物語

感動する話


東京の中野区にある「愛児の家」は、
戦後しばらくして、
無名の主婦・石綿さたよさん
によって設立されました。

石綿さんは、戦争孤児たちを不憫に重い、
自宅に引き取って
養育するようになります。

娘の石綿裕さんにその頃の
思い出を語っていただきました。

───────「今日の注目の人」───

☆ 孤児たちの幸せのために生きる ☆

石綿 裕(「愛児の家」主任保育士)
     
※『致知』2017年3月号【最新号】
※特集「艱難汝を玉にす」P50

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──多い時には、どのくらいの
  孤児たちがいたのですか。


そうですね。
100人以上が生活していたでしょうか。
運動会までやっていたくらいですから。
  

──一軒家に100人ですか。


ええ(笑)。夜寝る時なんか
軍隊から払い下げの粗末なお布団を
一階と二階の広間に
ダーッと並べるんです。
あと小さい部屋にもパラパラと。

ただ、私たちは三人姉妹でしたので、
そこは母が配慮してくれて、
女中さんの部屋を
使わせてくれましたけどね。

母はその頃から幼いお子さんと
一緒に寝ていました。

石綿氏② (2)

いろいろな方から

「よく我慢しましたね」

と言われますが、
私はそれが当たり前
だと思っていました。

でも、母は大変だったことでしょう。

朝四時頃、誰にも
気づかれないようにそっと起きて、
大きな鍋で皆の分の食事を作りました。

ボランティアで
手伝ってくださる方もいましたが、
それでも重労働です。
 
当時、駐留軍から配給になった
安いトウモロコシの粉があって、
母はそれに熱湯を注いでドロドロにして、
ワカメか何かを入れて
魚臭い代用醤油を使って
味つけをするんです。

子供たちはそれを
「でれん」とか「どろん」とか
呼んでいて(笑)、
決しておいしいとは
言えませんでしたけど、
それで何とかひもじさを
凌いでいました。
  

──心を開こうとしなかったり、
  集団生活に馴染めなかったりする
  孤児もいたのではありませんか。


そりゃあいますよ。
黙って出て行っちゃう子もいました。

家のものを勝手に持ち出して
上野に行って売ってくる、
なんていうのは日常茶飯事。

だけど、面白かったのは……



※石綿さんのお母さんは、
 なぜ孤児たちを引き取って育てようと
 思うようになったのでしょうか。

 そこには士族だったお祖父さまの
 教えがありました。
 詳しくは最新号をお読みください。