2017年06月26日
江戸時代、窮地に陥っていた
米沢藩の財政を立て直した名君・上杉鷹山。
その鷹山を精神的に支え続けたのが
儒学者である細井平洲でした。
二人の師弟愛を物語る逸話を
ご紹介します。
───────「今日の注目の人」───
童門 冬二(作家)
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中西 輝政(京都大学名誉教授)
※『致知』2017年7月号
※特集「師と弟子」P14
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【中西】
きょうは久々に
童門先生とお会いできましたし、
せっかくの機会ですので
細井平洲と上杉鷹山についても、
ぜひお話しいただきたいと思います。
鷹山は九歳で米沢藩・上杉家の養子となり、
16歳で家督を相続するわけですが、
当時の米沢藩は莫大な借財を抱えていました。
この困窮した状態を立て直す上で、
師の平洲は鷹山の心の支えとなるのですね。
【童門】
再建に当たって
藩主・鷹山が参考にしたのが
平洲の『嚶鳴館遺草』でした。
この本で平洲は
「財政再建の資源は
土と人間以外にありません。
その活用に絞って目を向けなさい」
と言っています。
さらに平洲は、まだ少年だった鷹山に
藩の非常事態に対処できる
「異常の人」になるように諭し、
城の侍や農民たちの模範となって
節制に励むよう進言します。
その上で
「治者は民の父母であれ」
「勇なるかな、勇なるかな。
勇にあらずして
何をもって行なわんや」
という励ましの言葉を贈るんですね。
(中略)
ここで大切なのは、
鷹山はどんなに厳しい立場に
追い込まれても、
平洲の教えを守り続けたことです。
鷹山にとって平洲は親であり師であり、
政治的な意味での
導き手でもあったと言えるでしょうね。
【中西】
そういえば、
平洲と鷹山の再会の逸話は
実に感動的です。
【童門】
69歳になった平洲が13年ぶり、
三度目に米沢を訪れた時、
鷹山自ら郊外の関根にある羽黒神社まで
平洲を出迎える話ですね。
一国のトップが城外に出て
客人を迎えるなど、
まさに異例ですし、
それだけ平洲との再会を
待ち焦がれていたということ
なのでしょう。
鷹山がいかに平洲を慕い、
心から尊敬していたか。
感涙にむせぶ二人の姿が
目に映るようです。
羽黒神社で平洲を出迎えた鷹山は
普門院に案内して
旅の労を慰めるのですが、
その普門院には
「一字一涙」と書かれた
石碑が建っているんです。
【中西】
一字一涙。
【童門】
平洲が自分を労ってくれた
鷹山のことについて
弟子宛に書いた手紙にある言葉です。
自分のすべてを捧げて、
ありったけの真心を尽くして
師の言葉に耳を傾けようという
鷹山の真摯な姿勢、
その弟子の思いに応えようとする
平洲の姿勢が、
このような美しい言葉に
なったのでしょうね。
平洲にもまた……
※この対談では
歴史上の人物だけでなく、
お二人にとっての師についても
語られています。
ぜひ本誌をお読みください。