2017年08月25日
『生き方のセオリー』から、
知られざる吉田松陰の感動ヒストリーを取り上げます。
どうせ死ぬにしても、最後の最後まで
最善を尽くそうとした松陰の姿勢に心打たれます。
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●『生き方のセオリー』(藤尾秀昭・著)
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吉田松陰に、こういう逸話があります。
安政元年3月27日、松陰は金子重輔と共に
伊豆下田に停泊していたアメリカの軍艦に
乗り込もうとして失敗し、下田の牢につながれます。
一夜明け、松陰は牢番に
「昨夜、行李が流されてしまって、手元に本がないから、
何かお手元の本を貸してくれませんか」
と頼みます。牢番はびっくりして
「あなたたちは大それた密航を企み、
こうして捕らえられて獄の中にいるのだ。
どうせ重いおしおきを受けるのだから、
こんな時に勉強しなくてもいいのではないか」
この牢番の言葉に松陰はこう言うのです。
「凡およそ人一日この世にあれば、
一日の食を喰らい、一日の衣を着、一日の家に居る。
なんぞ一日の学問、一日の事業を励まざらんや」
(ごもっともです。それは覚悟しているが、
自分がおしおきになるまではまだ時間がある。
それまではやはり一日の仕事をしなければならない。
人間というものは一日この世に生きていれば、
一日の食物を食らい、一日の衣を着、一日の家に住む。
それであるなら、一日の学問、一日の事業を励んで、
天地万物への御恩に報いなければならない。
この儀が納得できたら、ぜひ本を貸してもらいたい)
この言葉に感心して、牢番は松陰に本を貸します。
松陰は牢の中で金子重輔に向かってこう言ったといいます。
「金子君、今日このときの読書こそ本当の学問である」
渡部昇一著『人生を創る言葉』の中に出ている話です。
渡部先生もこの話に感動されたらしく、こう付記しています。
「牢に入って刑に処せられる前になっても、
松陰は自己修養、勉強を止めなかった。
無駄といえば無駄なのだが、これは非常に重要なこと
だと思うのである。人間はどうせ死ぬものである。
いくら成長しても最後には死んでしまうことに変わりはない
この〈どうせ死ぬのだ〉というわかりきった
結論を前にして、どう考えるのか。
松陰は、どうせ死ぬにしても最後の一瞬まで
最善を尽くそうとした。
……これは尊い生き方であると思う」
腹中に書をもって生きた松陰の面目躍如たる話です。
私たちもかく生きたいものです。