2018年02月11日
かつて河野宗寛という禅僧がいました。
戦後の満州で戦災孤児たちの救援を行い、
300人を無事日本に連れて帰るという、利他行に生きた人です。
かの仏教詩人・坂村真民さんも、心から尊敬し師事されました。
そんな河野老師について、臨済宗円覚寺派管長の橫田南嶺さんが綴られています。
橫田 南嶺(臨済宗円覚寺派管長)
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※『致知』2018年3月号【最新号】
※連載「禅語に学ぶ」P118
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真民先生が心から尊敬し師事された河野宗寛老師とはどのような方だったのであろうか。
今年の2月に大乗寺50年忌の法要が一年早めて行われる。私もおまいりさせてもらう予定である。
宗寛老師は明治34年にお生まれになり、昭和14年、大乗寺に住され、
そこで四国唯一の臨済宗の専門道場を開かれた。
昭和17年には、満州に建てられた妙心寺の別院に赴任され、現地で禅の指導に当たられた。
しかし、終戦を満州の地で迎えられることになり、大変な混乱に巻き込まれてしまう。
一人だけでも帰国するのは至難であった。
しかし、老師は慈悲の深い方であった。
終戦の後に老師の眼に映ってきたのは、町にあふれる孤児たちの姿であった。
厳寒の満州では、「3日ぐらい食べなくてもよいが、冬に暖房がなければ一晩で凍え死ぬ」と言われた。
老師は、いち早く坐禅堂を孤児院に開放し、自ら私財をなげうって石炭を買い集め、
町にあふれる孤児たちをかくまわれた。「慈眼堂」が開かれたのだ。
当時の思いを「戦に敗れし日より憂きことは親のなき子らのさまよひあるく」と詠われた。
それまでは禅によってひたすら精神の鍛練を説かれた老師が、一転して多くの孤児たちの親となられたのだ。
「今日よりは親なき子らの親となり厳しき冬を守りこすべし」と決意を詠われている。
厳しい禅の老師が、多くの孤児たちの親となる様子を
「入りし日は笑みもせざりし子供らもわれにより添い戯れにける」と詠われた。
ソ連兵も来る、中共軍も入ってくるという内戦の戦渦の中を、老師は我が身を捨てる決意で孤児たちを守られた。
「夜もすがら床の柱に倚りて坐し修羅の世相に涙すわれは」
そんな中を孤児たちは、「子供らは朝な夕なのひと時を坐禅をなして身を修めいる」という日々を過ごした。
苦難の末にようやく、昭和21年7月に帰国できることになった。
「立つ鳥も跡は濁さじ此の園を掃き清めおけふき浄めおけ」と最後まで禅僧らしく勤められた。
「幼子に今日はみ国に帰るよと涙もろとも説き聞かせけり」と詠われたのを見ると、
どれほどのご苦労があったのか察するに余りある。
「み仏と同じ心の恵みもちこの荒海を子らと渡らん」
「親のなき子らをともなひ荒海を渡り帰らんこの荒海を」
およそ300名に及ぶ孤児たちを連れて老師は、8月無事佐世保に上陸された。
命をかけて、多くの孤児たちを祖国に渡り帰らせたのだ。慈悲行の極みであろう。
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