2018年05月02日
『嫌われる勇気』がベストセラーとなって以降、アドラー心理学が大きな注目を集めています。長年、企業研修やカウンセリング業務を展開し、「勇気の伝道師」として定評があるヒューマン・ギルド社長の岩井俊憲さんはその研究の第一人者。アドラー心理学とはどういうものなのか。絶望の淵から立ち上がった岩井さんの人生体験を交えながらご紹介します。
家庭、仕事、財産の3つを同時に失った過去
(岩井)
企業研修やカウンセリング業務を通してアドラー心理学の普及に努めている私ですが、もともとは外資系企業に籍を置くビジネスマンでした。20代で埼玉県に総檜造りの一軒家を構え、30歳で総合企画室課長兼人事課長に出世。妻子とも健全でしたから傍目には順風満帆、理想的なサラリーマンに映ったに違いありません。
ところが、ある時、この会社が経営不振に陥り、どうしても人員整理が必要になってしまったのです。総合企画室課長である私は再建プランを練り、それを遂行する立場にありました。多くの同僚の再就職の斡旋のために奔走する中、プラン策定者である私自身も去るべきかどうか悩み続け、最後には辞意を決しました。
何不自由ない生活が突然、無収入になるわけです。身を引き裂かれる思いで妻とは離縁、幼い二人の子供たちとも離ればなれに生活することになりました。離婚協議書に基づいて自宅は妻に渡し、退職金で住宅ローンを返済。慰謝料と養育費を除くと手元に残ったのは10万円の普通預金のみでした。
私は人生にとって大切な家族と仕事と財産、この3つを一度に失ってしまったのです。1983年、35歳の時の出来事です。
私は二間のマンションでゼロからの再スタートを切りました。半年間の失業保険で食いつないでいこうとしている状態でしたが、そういう時、サラリーマン時代に受けた人材研修で一緒だったお坊さんに「給料は払えないけれども、飯くらいは食わせられる。私がやっている不登校児や非行少年の学習塾を手伝わないか」と声を掛けていただいたのです。
まもなく、私は家庭内暴力を振るっていた地方出身の少年を自分のマンションで預かることになりました。常に不安に怯えていた彼は夜中に突然私を叩き起こして、思いをぶつけることもしばしばでした。その中で過去にひどい虐待を受けた事実を知り、ともに涙したことを思い出します。
彼も私もどん底からはい上がろうとする同志であり、いつの間にか実の親子以上の強い絆のようなものが芽生えているのを感じました。短期間預かる約束だったはずが、進学を希望する彼のために夜遅くまで受験勉強を手伝い、無事大学に進学するまでの3年間、面倒を見るまでになったのです。
アドラー心理学との出逢い
塾に来て半年後、私はボランティアから正式なスタッフとなり、外資系企業で培ったノウハウを生かして教育システムの構築やPR活動に取り組みました。様々な教育プログラムを導入し、不登校や非行少年に関わる親たちに展開を図る一方、私もまた心理学カウンセラーの資格を取り、悩める子供たちや親たちの声に耳を傾けるようになりました。この時受けた講座が私の人生を変えたアドラー心理学だったのです。
物事をポジティブに受け止めるアドラー心理学の理論は、それまで心の拠り所だった仏教の教えと不思議なくらい一致し、私をどん底から救ってくれました。
特に大きかったのは自他を勇気づける力を学んだことです。活力のない人間が他人に活力を与えることはできません。しかし、自己の弱さを知りつつも他者に積極的に貢献しようとする時、自らもまた大きな活力が得られるというのです。それは言葉を換えれば、貢献する喜び、感謝される喜びによって得られる勇気、と言ってよいかもしれません。
アドラー心理学は考えをポジティブにし、人生を転換させるだけの大きな力を持っています。私たちは日々様々なケースを目の当たりにしますが、ここでは一人のサラリーマンの実話をご紹介します。
鬱病で休職したりアルコールに溺れたりの毎日を過ごしていた40代の男性Yさん。お話をしてみると、幼い頃、酔った父親からの虐待を受け、優秀な弟と比較されては「おまえはしょうもないやつだ」と罵られていたことが分かりました。そのためか二言目には「親を許せない」「自分は駄目な人間です」というのが口癖でした。
私はYさんに「親を許そうと思う前に、まずは恨みを持った自分自身を許しませんか。そこから一歩、二歩と前に進めるんですよ」と粘り強くカウンセリングを続けていきました。自己肯定感が高まるにつれてYさんの心は少しずつほぐれ、ご両親と和解できるようになり、アルコールからも解放されていきました。
1年ほど経って気持ちが安定した頃、今度は鬱病やアルコール依存症だった経験を生かして自身が何か貢献できることはないかを考えてもらいました。Yさんが考えたのは、アルコール依存症会で自らの再起の証しを示し、依存者を勇気づけることでした。ところが、Yさんの活動はこれらの会で体験を話すだけにとどまりませんでした。他者に貢献する喜びを知ったYさんは、自らブログを立ち上げて思いを広く配信するようになったのです。いまは転職し元気に働いています。
このYさんの事例のように、自分の苦い体験を財産に変え、他に貢献して初めて真の立ち直りということができます。このことを教えるのもアドラー心理学の素晴らしい特徴でしょう。
(本記事は『致知』2012年4月号特集「勇気づけがよき人生の未来をひらく」を一部、抜粋したものです)
岩井俊憲(いわい・としのり)
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昭和22年栃木県生まれ。45年早稲田大学卒業、外資系企業に勤務。営業課長、人事課長、総合企画室課長などを歴任。60年ヒューマン・ギルドを設立、代表取締役に就任。著書に『勇気づけの心理学 増補・改訂版』(金子書房)『心の雨の日の過ごし方』(PHP研究所)『図解 伝わる!ように「話せる力」』(明日香出版社)など多数。