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大変だったのは戦後です。
戦争が終わると同時に職業軍人だった夫は職を失い、
父の勧めもあって千葉に移り住んで
牡蠣の養殖に携わりました。
――お父様と同じ道を歩まれようとしたと。
でも数年間努力したのですが、
どうしても事業を軌道に乗せることができませんでした。
夫は養殖業に見切りをつけると同時に、
今度は東京に新しい働き口を
見つけて再び引っ越しです。
暮らし向きはかなり厳しくて、
私も何かしなければと考えていたところ、
たまたま主婦の友社の募集広告を妹が見つけてくれたんですよ。
「料理の好きな家庭婦人を求む」とあって、
子供がいてもいいという条件だったので、
これならと思って試験を受けに行きました。
もっともおなかの中にいた五番目の子供が
かなり大きくなっていたので、
いくらなんでも難しいかなと思っていましたけど(笑)。
――どのくらいの応募があったのでしょうか?
300人くらいだったと思います。
試験は書類審査、筆記試験と身体検査、
そして実地試験があって
どんどん振り落とされていきました。
最終的には7名が残って、
そのうちの一人が私だったんです。
嬉しかったですね。
4月に入社してからすぐに出産だったので、
初出勤はその年の8月1日。
思い返せば、この日が50年以上続く
料理記者としての第一歩となりました。
――記者としての力量はどのように
磨かれたのでしょうか。
素人でしたから最初は苦労しました。
会社の決まり事として
社員全員に日記を書かせていて、
これが大いに役に立ったんです。
退社時に提出すると翌日朱筆で
校正が返ってくるのですが、
特に最初の頃は句読点の打ち方から行がえ、
表現法などの指摘でページが
真っ赤になっていました(笑)。
その繰り返しの中で基本を覚えていきました。
時代は高度成長期にさしかかる頃で、
家庭で手の込んだ料理をつくろうとする主婦や、
花嫁修業で料理学校も大盛況だったため、
カラーの料理本なども本当によく売れました。
だから仕事も次から次へと本当に忙しくて、
料理学校で撮影の仕事がある日なんか、
授業が終わってから始めるものだからほぼ徹夜でしたね。
それが何日か続くともうふらふらで。
(略)
――そうやって長年第一線で
活躍し続けてこられたのですね。
そうね、ずっと休むことなく
料理記者として働いてきたわけだけど、
楽しいことばかりじゃなくて、
辛いことも数多くありました。
そんな時いつも私を励ましてくれたのが、
「嫌なことは夜、布団の中で考えないこと。
太陽の下で考えれば何事も明るくなる」
という(香川)綾先生の言葉でした。
歯を食いしばって一所懸命頑張ってきたから、
いろいろな人に会うことができたし、
仕事のやりがいにも気づくことができたのだと思います。
綾先生は満98歳で亡くなる
直前までお元気でしたので、
私もそれにあやかって、
「おいしく食べて健康長寿」をモットーに、
98歳まで食の大切さを伝え続けていきたいと思います。
※岸さんのご冥福を心より
お祈り申し上げます。