逸話に見る森信三師 学問の都を追われ

大学卒業後、丸五年大学院に学びましたが、その間京都では就職のポストは得られませんでした。 というのも、いわゆる「京都学派」と呼ばれる人々とは、根本的にその学問観を異にしていただけでなく、あまり付き合いもなく、学業は首席の身でありながら孤独の道を歩まねばならなかったからです。 また母校の広島高師にも迎えられなかったことは、思いもよらぬことでした。

結局、昭和六年、大学院卒業と同時に天王寺師範の嘱託講師から専任教諭として正式に就職が決まり、大阪へ転住を余儀なくされました。 時に数え三十六歳でした。 移り住んだのは、田辺西之町七丁目で、一歩外に出ると一面の畑が広がっていました。

粗々しい赤土の上に立った先生は、学問の都を離れた寂寥につつまれ、全く天地の間に「ただ一人立つ」の感慨を抱かれたようです。 しかし、こうした孤独寂寥こそ、いやしくも真に哲学を専攻しようとする者にとって必然即最善の道であったのです。

やがてそれが実証される日が訪れるわけですが、当時は知るべくもありませんでした。 その当時の不安な心境は次の歌によってもうかがわれます。

わが力己れ恃(たの)むにあらねども行く人のなきこれの道かも

大いなる光は照れれ慕ひゆく己が歩みのおぼつかなしや

(寺田一清編著『森信三小伝』より)

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