2022年07月01日
当たり前のことを当たり前にやる。それが人間としていかに大切か。いかに勇気の要ることか――。6000人ユダヤ人を救うために、本省の指令に背き、敢然としてビザを発給した一外交官・杉原千畝。その夫の言動を妻である歌人の杉原幸子さんが回顧した貴重なお話をご紹介します。
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頼ってくる人々を見捨てるわけにはいかない
夫(杉原千畝)はいいました。
「私は外務省に背いて、領事の権限でビザを発給するよ。いいだろう?」
「そうしてください。でも、私たちはどうなるのかしら」
「ナチスから問題にされるかもしれないが、家族にまでは手を出さないだろう。
外務省にはとがめられるだろうが、そのときはそのときだ」。
それは夫の覚悟の表明でした。
夫は近くのソ連領事館に出かけていきました。ビザを発給したユダヤ人たちが日本までソ連領を無事通っていけるよう、交渉に行ったのです。
交渉は成功でした。ソ連の領事は夫の巧みなロシア語にすっかり胸襟を開き、ユダヤ人たちのソ連領通過の安全を保障してくれたということです。
「ビザを発給します。間違いなく出しますから、順序よく並んでください」
夫がそう告げたときの人々の喜びようはありませんでした。
それからほぼ一か月、夫の奮闘は続きました。ビザを発行するには、受け入れ国の上陸許可証があるか、目的地まで行けるお金があるか、あるいはそれらを今後準備できるか、一応面接しなければなりません。その上でビザに記入し、発行するのです。
朝、階下の事務所に下りていくと、夫は夜まで上には上がってきませんでした。ビザを求めるユダヤ人は次から次へと列をつくって待っています。
昼食をとっている暇はないのです。夫は睡眠不足で目は赤く充血し、痩せて顔付きまで変わりました。
ビザを書きまくる右腕は硬直して痛み、毎晩その腕をもむのが、私の役目になりました。しかし、休むわけにはいきません。ソ連からの領事館退去要請は切迫しています。
夫がビザの発給を続けたのは、8月28日まででした。もうそれ以上は持ちこたえられませんでした。私たちはあわただしく荷物をまとめ、機密書類は焼却して領事館を出、ホテルに避難しました。そのホテルにも、まだビザを手にしていないユダヤ人はやってきました。
ソ連の勧告ぎりぎりまで夫は正式なビザに代わる日本通過の許可証を、ホテルで出し続けました。私たちはカウナス駅からベルリン国際列車に乗りました。そのホームにもユダヤ人たちはやってきました。夫は発車間際まで汽車の窓から許可証を書きました。
発車の時間は来ました。
「許してください。もう時間がありません。皆さんのご無事を祈ります」。
私たちを乗せた列車は走りだしました。すると、そこに集まっていた人々から、声が上がったのです。
「スギハァラ、私たちはあなたのことを忘れません」。
人々は泣きながら手を振りました。
「あなた、よかったわね。あなたは素晴らしいことをしたんだわ」。
私が言うと、夫はこう答えました。
「いや、私は当たり前のことを当たり前にやっただけだよ」。
それから、一語一語かみしめるように言いました。
「私を頼ってくる人々を見捨てるわけにはいかない。でなければ、私は神に背く」
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◇杉原幸子(すぎはら・ゆきこ)
大正2年岩手県に生まれる。昭和6年香川県立高松女学校を卒業。湘南朝日新聞歌壇選者。著書に『六千人の命のビザ』『歌集 白夜』がある。