2018年09月26日
小林義功和尚は、禅宗である臨済宗の僧堂で8年半、真言宗の護摩の道場で5年間それぞれ修行を積み、その後、平成5年から2年間、日本全国托鉢行脚を行うという大変ユニークな経歴の持ち主です。義功和尚はどういうきっかけで仏道を志し、どのような修行体験をしてこられたのでしょうか。WEB限定の当連載では、ご自身の修行体験を軽妙なタッチで綴っていただきました。
丁と出るか 半と出るか こればかりは分からない
この行脚は私にとって人生の大きな賭けである。どう転ぶか見当もつかない。ただ、師匠に申し上げ許可を頂いた以上、実行するしかない。
必要なものは何か。思いつくままにノートに書き出した。網代笠(あじろかさ)、看板袋、頭陀袋(ずだぶくろ)、衣、白衣、手甲(てこう)、脚絆(きゃはん)、足袋、行者足袋。経本、数珠、輪袈裟(わけさ)、下着・・・待てよ。衣、白衣、足袋、下着は全て1着ではないか。心もとない。最低2着はいる。替えが欲しい。それから、1つ1つ並べて見た。結構な荷物である。これはリュックに詰めるしかない。
早速、クルマで○○ショップに行った。沢山ある。衣は黒だから黒に揃え、リュックの大きさはほどほどにした。上の棚を見ると寝袋が積んである。そうか寝袋があれば宿泊代が助かるか・・・どうするか? 雨具もいる。これは禅宗の托鉢用のレインコートがあるから問題はない。
寺に戻って積め込み作業を始めた。リュックはパンパンに膨らんだ。入ることは入ったが、手ぬぐいも2枚はいる。ノートも筆記具、辞書もいる。そうだ地図もいる。これは必需品だ。さし当たり全国と九州。
まだまだある。歯ブラシ、歯磨き粉。衣が破れたときの裁縫道具。石鹸はいいが、救急用のバンドエードと消毒液、正露丸もいるかなぁー。剃髪用のシック。替え刃がいるから電気剃刀(かみそり)。宿泊のとき充電するか。
・・・ドンドン増える。リュックを大きくすればいいが、托鉢をするには僧としてのスタイルがある。仏道修行者にはそれなりの品格も必要だ。大きなリュックではなぁ。見栄えが悪い。駄目だ。
・・・ならば荷物を減らすか。折り畳んだ衣はリュックの中で占めるスペースが大きい。衣は1着でいい。何年かかるか分からないが1枚で通すのだ。それしかない。衣を抜いて荷物を入れると何とか収まった。
さて、寝袋はどうしよう? 幅だけでも70センチはある。直径は20センチ。これも大きい。あれば宿泊代が浮くが・・・。助かるには助かるが、登山家ではないし見た目に悪い。それからも散々迷ったが、修行僧は修行僧らしく結局止めにした。丁と出るか半と出るか。こればかりは分からない。運を天にまかせるだけだ。御仏が善しと思えば全う出来るし、駄目ならそれまでだ。そう決着した。
こうして準備は整った。さて、禅宗で出家してから10数年、郷里相模湖にはすっかりご無沙汰である。禅宗から真言宗に転派した時にも、高野さんを介して、母に報告しただけである。今度ばかりは私の人生の大きな賭けである。成功するやらしないやら、何年かかるかも分からない。年齢もすでに49歳。師匠からも郷里へ1度帰ったらと勧めて頂いたことでもある。母や姉、叔父や叔母たちにご挨拶、また小林家の墓前に報告ご加護をお願いすること。これも大切なことである。久しぶりの帰郷である。
郷里に帰る
鹿児島から飛行機で羽田空港へ。そこからモノレールに乗りこむと思いもよらない人物に出会った。
「あっ、○○先生。どこへ?」
「関西の学会があったので、その帰りです」
慶応大学病院勤務の医者である。祥福僧堂の座禅会に参加なされて以来のご縁である。私が最福寺に移籍した後も鹿児島まで来られた方だ。
「義功さんは?」
「托鉢で全国を行脚することになり、その前に郷里の相模湖へ挨拶に行くところです」
混雑する中での立ち話ですからゆっくりと会話は出来ない。
「そうですか。研究論文が認められて学会で表彰されたのですが、これ使って下さい」
と金銀の水引のついた熨斗袋(のしぶくろ)を私に押し付けた。学会で頂いたものだ。
「いや、それは・・・」
「いいんです。いいんです」
終点浜松町で下車して別れましたが、まさか、こんなところで。思わず息を飲んだ。偶然にしては出来過ぎである。何年も会っていないし、たまたま学会ということで先生は大阪発の飛行機、私は鹿児島発で羽田に。混雑するターミナルをあたふた移動して、モノレールで乗り合わせている。同じ時刻、同じ車両に。不思議だ。理屈では説明がつかない。これは私の行脚を祝福する神仏のメッセージか・・・。
この先の話になりますが、東北を托鉢行脚していた時のこと。健康飲料酵素のセールスをしていた○○さんとご縁があった。その方には霊感がある。あちこち案内して頂いたが、お別れの時に東京に知り合いのお医者さんがいる。そこを訪ねたらと御紹介頂いた。北海道、東北から千葉を行脚し東京湾アクアラインで川崎。そのお医者さんを訪ねたのは翌年2月であった。すでに連絡があったらしく喜んで迎えて下さった。気さくで好感の持てるお人柄である。行脚の話も弾んで、何気なくフトもらした。
「先生が慶応なら同じ慶応を出た○○先生を知っていますが・・・」
「何に! それは私の親友だよ」
この言葉がストレートに返ってきた。羽田空港の一件も重なり、衝撃を受けた。私たちを動かしているあるものがあるのか・・・と。
つづく