2026年03月19日
東京2020オリンピックでの女子日本代表の銀メダル獲得、自国でのワールドカップ開催、男子日本代表の48年ぶりとなる自力でのオリンピック出場権獲得、パリオリンピックでの強豪国との熱戦をはじめ、かつてない盛り上がりを見せる日本バスケ界。その躍進を陰から支えたのが、2016年から昨年9月まで日本バスケットボール協会の会長を務め上げた三屋裕子さんです。もともとバレーボール選手だった三屋さんは未知の世界に飛び込み、いかにして日本バスケ界を立ち上がらせたのか。ご自身の原点、恩師であるJリーグ初代チェアマン・川淵三郎さんの教えについて振り返っていただきました。
(本記事は月刊『致知』2026年3月号 連載「第一線で活躍する女性」より一部抜粋・編集したものです)
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足を止めないで坂道を上り続ける
──三屋さんは、もともとバレーボール選手として輝かしい実績を残されていたと伺っています。
〈三屋〉
コンプレックスだった高身長を生かせるという理由で中学からバレーボールを始めたところ、体格や運動神経に恵まれていたおかげですぐに周囲から注目されるようになりました。大学在学時には全日本代表に選ばれ、1984年のロサンゼルスオリンピックで銅メダルを獲得しました。
しかし、高校生になる頃には「バレーの三屋」では生涯食べていけないと考えていたんです。じゃあ、長く働ける仕事は何だろうと。それでバレーボールも生かせる体育教師の道を目指し、筑波大学の体育専門学部に入学しました。
コーチや仲間の説得を受け、卒業後はバレーの名門・日立製作所に入りましたが、教師の道を見据えて厳しい練習の合間を縫っては教員試験の勉強をする。代表活動でブラジルへ遠征した時には、東京都の採用試験を受けるために一時帰国したほどです。こうしてロサンゼルスオリンピックの前に赴任先の高校が決まり、銅メダルの獲得から2週間後には教師に転身しました。26歳の時です。
──メダル獲得の余韻に浸る間もなく教師の道に進まれた。
〈三屋〉
自転車で坂道を上っている時に途中で止まってしまえば、再び走り出すのに凄まじいエネルギーが要りますよね。そうすると、より緩やかで楽な坂に流れてしまう。これは人生でも同じですから、なるべく足を止めないで坂道を上り続ける選択を心掛けています。
──キャリアを重ねていく中で、転機となったことはありますか。
〈三屋〉
それはやはり、1998年、40歳の時にJリーグの理事に抜擢されたことです。
30代半ば頃の私は体育教育を通してスポーツの価値を伝えることに限界を感じ、学びの場を求めて筑波大学の大学院に進学、コーチングの研究に没頭しました。ただ、当時は経営難で日立をはじめとした実業団バレーチームが次々と廃部に追い込まれていました。
その様子を目の当たりにして、これからのスポーツは企業に支えられるのではなく、地域で育てることが大切だと考えるようになりました。メディアでも「これからは地域だ」と盛んに発信していると、Jリーグの初代チェアマンである川淵三郎さんの目に留まり、突然電話が掛かってきたんです。
なんでも、地域でスポーツを盛り上げるという私の考え方がJリーグの理念と同じだと。「いろんな経験のある人に入ってもらいたいから、うちの理事になってくれませんか」と、直々にお声掛けいただきました。サッカーのことは全く分かりませんでしたけど、これほど光栄なことはないと思い、「勉強させてください」と二つ返事で理事就任を引き受けました。
──未知の世界にも臆せず飛び込まれたのですね。
〈三屋〉
できるかどうかを考えるより、先に体が動いたという感覚ですね。Jリーグでは、川淵さんの傍でスポーツをビジネスとして管理する手法や考え方を一から学ばせていただきました。
川淵さんはよく「自分のエネルギーは怒りだ」とおっしゃいます。Jリーグの発足然り、後に着手されたバスケ界の改革然り、「こんな理不尽があってたまるか」という強い憤りが川淵さんを突き動かしていました。溢れ出るエネルギーに圧倒されてばかりでしたよ。
それから、川淵さんは決して妥協しません。何があっても諦めず、ギリギリまで歯を食いしばる。川淵さんの諦めない姿勢はリーダーとしての指針になっています。












