2025年04月18日
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第二次世界大戦末期、悪化した戦局を打開すべく、日本軍は爆弾を積んだ戦闘機で敵艦に体当たりする「特別攻撃作戦(特攻)」を実施。鹿児島県南九州市の知覧飛行場からは最多となる439人が出撃しています。その知覧において、特攻隊員に〝母〟と慕われたのが鳥濱トメさんです。トメさんは、陸軍指定食堂「富屋食堂」の女将として、店を訪れる隊員たちの世話をしました。トメさんの孫で、東京・新宿三丁目で鹿児島料理店「薩摩おごじょ」を営む赤羽潤さんに、特攻隊員の慰霊に人生を懸けたトメさんの生涯を振り返っていただきました。〈画像提供:知覧特攻の母鳥濱トメ顕彰会〉
(本記事は『致知』2024年10月号 致知随想「祖母・トメ、母・礼子の願いに生きる」を編集したものです)
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「撃つなら私を撃ちなさい!」
〈赤羽〉
第二次世界大戦末期、悪化した戦局を打開すべく、日本軍は爆弾を積んだ戦闘機で敵艦に体当たりする「特別攻撃作戦(特攻)」を実施。17歳から32歳の未来ある若者1,036人が祖国の安寧と大切な人の無事を願い、空へと飛び立っていきました。
中でも、鹿児島県南九州市の知覧飛行場からは最多となる439人が出撃しています。その知覧において、特攻隊員に〝母〟と慕われた女性がいました。祖母・鳥濱トメです。
トメは、陸軍指定食堂「富屋食堂」の女将として、店を訪れる隊員たちの世話をしました。戦時中の貧しい暮らしにあって、時に着物や家財道具を売って食事や酒をふるまい、隊員たちが等身大で綴った手紙を憲兵の検閲を掻い潜って投函するなど、自らの危険を顧みず、彼らに寄り添い続けました。
このようなトメの戦中の活動は、今日広く知られるところです。そこで今回私がお伝えしたいのは、戦後の鳥濱トメについてです。私は、トメの真の苦労は戦後にこそあったと考えています。
終戦後、特攻隊員の慰霊のため、トメは「特攻平和観音堂」の建立を切望しました。嘆願書を手に、来る日も来る日も役場へ足を運び、「観音堂を建ててください」と必死に訴え続けました。しかし、進駐軍の厳しい目や苦しい町の財政状況もあり、なかなか聞き入れてもらえません。
諦めるわけにいかないトメは、飛行場跡地に1本の棒杭を刺し、その棒杭に向かって手を合わせるようになりました。特攻を連想させる立派なものを建てれば進駐軍に壊されてしまう。道端の棒杭を地面に刺して手を合わせ、それを終えると引き抜いて林の中に隠し、翌日またその棒杭を刺して手を合わせる。これを観音堂が建立される1955年までの約10年間、毎日行いました。
トメのそうした使命感は、町にも向けられました。戦後、富屋食堂は進駐軍の宴会場として開放するよう要請を受けます。しかしトメからすれば、息子同然だった特攻隊員たちの命を奪った敵兵の面倒を見ることになるわけです。当然初めは断りましたが、悩んだ挙げ句、町の治安維持のためにやむなく引き受けることにしたのです。
進駐軍の素行の悪さは知覧でも同じでした。ハスキンという兵士は、人に銃を突きつけたり、上空に向かって弾を放つなど、度々町の人々を怖がらせました。ある日、現場に居合わせたトメは、なんと銃を掴んで自分の胸に当て、「撃つなら私を撃ちなさい!」と言い放ったと言います。
このトメの覚悟には、アメリカ兵も驚いたはずです。しかも、富屋食堂で宴会が開かれる際には、この青年に調理や掃除など何でも手伝わせました。するとどうでしょう。荒くれ者だったハスキンが、次第にトメに心を開くようになりました。敵国の人間と言えど、親元から離れて暮らすアメリカ兵にとって、いつしかトメは母親代わりの存在となっていたのです。
トメは言っていました。
「日本兵もアメリカ兵も同じ。胸のポケットには家族の写真を入れ、故郷から手紙が届けば、嬉しそうに私に読んで聞かせてくれた。日本は戦争に負け、アメリカは勝って国として得たものはあったかもしれない。けれども、最前線で戦った若者たちにとっては、失ったもののほうが遥かに大きい」と。
我が子のように愛情を注いだ日本兵も、ここにいるアメリカ兵も変わらない。トメにとっては同じかけがえのない〝命〟だったのです。
10年ほど前、進駐軍の兵士のご子息がインタビューを受けている番組を目にしました。自宅が映し出されると、父親の写真や勲章に並んで、なんとトメの写真が飾られているではありませんか。思いがけないことでした。ご子息はトメの写真を指して言いました。
「Japanese Mommy──父が日本でお世話になったお母さんです」
それを聞いた時、思わず涙が零れました。日本兵とアメリカ兵、それぞれの思いを受け止め、慈愛をもって接したトメを心の底から誇らしく思ったものです。
〈鳥濱トメさん(画像提供:知覧特攻の母鳥濱トメ顕彰会)〉
トメが天国へと旅立って32年。現在私は、生き残った特攻隊員の慰労のために母・礼子が東京に開いた飲食店「薩摩おごじょ」の経営を担っています。トメが特攻隊員に愛を注いだように、おふくろもまた、散華した隊員たちの語り部として活動する一方、生き残った方々やご遺族のために尽くした人生でした。
おふくろは晩年、癌を患いながらも、入院したら店を畳まなければならないからと、亡くなる3か月前まで厨房に立ち続けました。最後は骨と皮同然の姿でやっと立っているような状態で、ついには店の階段を昇りきることすらできなくなりました。
「この店とおふくろの思いは俺がちゃんと受け継ぐから」
そう約束を交わした2日後に、おふくろは75歳で息を引き取りました。
おふくろはきっと、亡くなったいまもこの店に立って特攻隊員たちの思いを伝えたいと願っているに違いありません。それは、特攻隊員の慰霊に命を懸けたトメも同じです。トメやおふくろが人生をかけて繋いできたもの──それを今度は私が後世へと繋いでいきます。
◇赤羽 潤(あかばね・じゅん)
鳥濱トメの二女「礼子」の二男。2歳から高校までは知覧町にて鳥濱トメのもとで育てられ、特攻隊員の様々なエピソードを聞いて育つ。戦後20余年を経て、母・礼子が東京都新宿区に開店した「薩摩おごじょ」を継ぎ、店主を務める傍ら、語り部として亡き祖母と母の遺志を継いで「鳥濱トメと特攻隊」と題した講演をおこなっている。
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