【取材手記】〝特攻の母〟鳥濱トメと娘・礼子が命がけで繋いできたもの


~本記事は月刊『致知』2024年10月号 致知随想「祖母・トメ、母・礼子の願いに生きる」の取材手記です~

孫が見た、特攻の母・鳥濱トメの意外な素顔

第二次世界大戦末期、悪化した戦局を打開すべく、日本軍は爆弾を積んだ戦闘機で敵艦に体当たりする「特別攻撃作戦(特攻)」を実施。17歳から32歳の未来ある若者1,036人が祖国の安寧と大切な人の無事を願い、空へと飛び立っていきました。

中でも、鹿児島県南九州市の知覧飛行場からは最多となる439人が出撃しています。その知覧において、特攻隊員に〝母〟と慕われた女性がいました。鳥濱トメさんです。

〈鳥濱トメさん(画像提供:知覧特攻の母鳥濱トメ顕彰会)〉

トメさんは、陸軍指定食堂「富屋食堂」の女将として、店を訪れる隊員たちの世話をしました。戦時中の貧しい暮らしにあって、時に着物や家財道具を売って食事や酒をふるまい、隊員たちが等身大で綴った手紙を憲兵の検閲を掻い潜って投函するなど、自らの危険を顧みず、彼らに寄り添い続けました。

今回は、そのトメさんの孫で、東京・新宿三丁目で鹿児島料理店「薩摩おごじょ」を営む、赤羽潤さんにお話を伺いました。

赤羽さんは、母・礼子さんが「薩摩おごじょ」を経営していた事情もあり、2歳から高校生までの間、鹿児島のトメさんのもとで育てられました。その姿に間近で接してきた赤羽さんは、トメさんに対してどんな印象を抱いていたのでしょうか。お話を伺うと、トメさんの意外な素顔が見えてきました。

とにかく鳥濱トメって、戦中も戦後も、困った人を見かけたらほっとけないんですよね。「私のところに来やったもんせ」と言って、必ず手を差し伸べる。本当に優しすぎるくらい優しい人でした。

その一方で、すごい楽しいっていうかね、人を楽しませるのが好きな人間でしたよね。これはあんまり皆さんに知られてないんですよ。すごい面白いの。いつも笑っていて、カッカッカッカって水戸黄門みたいな笑い方をする。腹の底からね(笑)。

戦中、特攻隊員に接する時にも、隊員の方々を楽しませる、笑顔にさせる才能を持っていたんじゃないかなと思います。

知覧に着いて、早ければ1日、遅くとも10日後にはみんな飛び立っていくわけですよ。その間毎日のように富屋食堂に来る。なぜかと言ったら、富屋に行けばトメがいて、その優しさと愛情で包んでくれる。心から楽しませてくれる。緊張感の高い日々のほんの束の間、富屋で過ごす時間が、本当の自分に還ることのできる大切な時間だったのではないでしょうか。

「トメの真の苦労は〝戦後〟にあった」

戦中の隊員たちとのやり取りと比べ、戦後のトメさんの活動についてはあまり知られていないかもしれません。

その上で、今回の取材で赤羽さんが強調されたのは、トメさんの真の苦労は「戦後」にあったということでした。戦後の活動について、本文から一部抜粋してご紹介します。

終戦後、特攻隊員の慰霊のため、トメは「特攻平和観音堂」の建立を切望しました。嘆願書を手に、来る日も来る日も役場へ足を運び、「観音堂を建ててください」と必死に訴え続けました。しかし、進駐軍の厳しい目や町の苦しい財政状況もあり、なかなか聞き入れてもらえません。

諦めるわけにいかないトメは、飛行場跡地に1本の棒杭を刺し、その棒杭に向かって手を合わせるようになりました。特攻を連想させる立派なものを建てれば進駐軍に壊されてしまう。道端の棒杭を地面に刺して手を合わせ、それを終えると引き抜いて林の中に隠し、翌日またその棒杭を刺して手を合わせる。これを観音堂が建立される1955年までの約10年間、毎日行いました。

トメさんの特攻隊員に対するどこまでも深い愛情、使命感の強さが垣間見えるお話です。

ところが、トメさんの愛情が向けられたのは、何も特攻隊員だけではありませんでした。本誌ではそのことが読み取れる、進駐軍の世話役を買って出た際のエピソードを紹介しています。


〈トメさんと特攻隊員の方々〉
(画像提供:知覧特攻の母鳥濱トメ顕彰会)

トメさんの遺志を継ぎ、「薩摩おごじょ」に命を懸けた次女・礼子さん

現在、赤羽さんが店主を務める「薩摩おごじょ」は、赤羽さんの母・礼子さんがつくったお店です。

薩摩おごじょの「おごじょ」は、薩摩弁で女性のこと。つまり、鹿児島の女性を表しています。女学生時代、「将来は富屋みたいなお店をやりたい」と言う礼子さんに、特攻隊員の方がこの名前を提案してくれたのだそうです。

店ができたのは、戦後25年となる1970年。元々この店を始める前は、特攻隊員の生き残りの方々が、東京にある礼子さんの自宅に頻繁に集まっていたのだといいます。

生き残った方々は、「死ぬ時は一緒に死のう」と誓い合った仲間に先立たれ、やり場のない気持ちを抱えていました。そうして東京の礼子さんの自宅に集まり、傷を癒すように、お酒を呑んだり、軍歌を歌ったのです。

一方で、夜中に軍歌を歌うもので、ご近所からの苦情が絶えなかった。礼子さんとしては、生き残りの方々の気持ちがよく分かるからこそ、辞めさせることも心苦しい......。そこで礼子さんは、知覧のトメさんに電話をかけて相談をしたのだそうです。

「私は出撃した方の面倒を見た。礼子、あなたは生き残った方の面倒を見なさい」。

トメさんの一言を受け、皆が集まる場所をつくろうと立ち上げたのが「薩摩おごじょ」でした。以来、生き残りの方々やご遺族の方々をはじめ、様々な方に愛され、今日に続いています。

その間、礼子さんは店の経営だけでなく、講演もこなしました。定休日の毎週日曜には朝一番の飛行機に乗り、鹿児島や日本各地で語り部を行い、月曜朝には東京に戻って店の切り盛りをしたといいますから驚きです。

晩年はがんを患いますが、気力を振り絞り、亡くなる3か月前まで厨房に立ち続けました。

本誌には、文字通り命がけで店を支え、慰霊・顕彰活動に取り組んだ礼子さんの最期についても記しています。

トメさん、礼子さんが人生をかけて繋いできたものとは何か。その遺志を継ぐ赤羽さんはいま、どのような思いで経営に取り組まれているのか。ぜひ本誌の記事をご覧ください。

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