2024年12月14日
風光明媚な長崎県五島列島で、先祖代々剣の道に携わる武士の家柄に生まれ、幼少期より文武両道の厳しい修行を重ねてきた馬場欽司氏。80歳を迎えるいまもなお、終わりなき自己修養、後進の育成に情熱を傾ける馬場氏の原点には、人生の師と慕う父親の教えがあったと言います。 ◎今年、仕事でも人生でも絶対に飛躍したいあなたへ――
《1月31日(金)までの期間限定》
充実した2025年を送るための「言葉のお年玉」として、月刊『致知』と人気書籍をお届けする、新春お年玉キャンペーンを開催中です
「菫の花に何かを感じる人になりなさい」
——馬場さんの原点、これまでの歩みをお話しいただけますか。
<馬場>
私は1944年、7人きょうだいの四男として長崎県福江市(現・五島市)に生まれました。
私の人生を語る上で欠かせないのは父の存在です。父であり我が人生の師である武雄は、旧制五島高等女学校や旧制五島中学校で教練と漢文を、戦後は県立五島高等学校で国語、保健体育を教えた教育者でした。
一方、剣を家伝の越後流、北辰一刀流、新陰流、小野派一刀流に学び、他に相撲道、柔道、合気道、弓道、十手術、銃剣術、薙刀、剣舞、詩吟、書道と三十余段の段位・称号を持ち、和歌や俳句、木彫、珊さん瑚ご彫刻、地理や考古学にも精通していました。
そして五島も含む西海国立公園の設立に尽力し、表彰されました。
——お父様は文武両道の達人であり、教養人であったのですね。
<馬場>
また、戦後教育に深く失望した父は、先祖代々の剣の道を通じて五島の子供たちを育て世の中に送り出そうと決意。学校の職を辞し、「西雄館道場」で剣道指導に情熱を傾けていきますが、その先鞭が私だったのだと思います。
というのも、母は私がお腹にいる時から稽古の音を熱心に聴かせていました。
そのためか、初めて道場に連れて行った時に泣かなかったのはきょうだいで私だけだったんですね。また、兄たちも皆父に剣道を習い、実力・人間性共に立派でしたが、母や親戚には、「性格も体格も欽司が一番お父さんに似ている」と言われていました。
——お父様の剣道指導はいつ頃から始まったのですか。
<馬場>
私が剣を握ったのは3歳でした。七五三の時に父から脇差を渡され、神社にお参りに行ったことをよく覚えています。ただ、当時はGHQによって剣道が禁止されていたこともあり、人の目に触れないよう、五島藩の石田城跡の境内にて稽古をしていました。
父の指導は「一に大きく、二に真っ直ぐ、三により遠くから」の3点に尽き、小学校に入るまでは木刀や真剣による素振りが主でした。幼少期から基本の素振りに専念でき真剣を手に剣道を始められた環境が、その後の私の基礎になったことは間違いありません。
また、五島では相撲が盛んでしてね。我が家の裏庭にも本格的な土俵があって、そこで擦り足や四股、鉄砲や股また割わりなどの稽古を行ったことが、武道の本体ともいえる足腰の鍛錬に繋がりました。
さらに父は事あるごとにご先祖様、神を敬う大切さ、英雄・偉人について熱を込めて語ってくれました。特に西郷隆盛、勝海舟、高橋泥舟、乃木希典などの英雄伝には感動し心震えました。これもまた、情感や大きな夢を育はぐくむ稽古の一つであったのだと思います。
——師の導きで心身両面の鍛錬を正しく積み重ねていかれたと。
<馬場>
あと、ちょうど小学校に上がる5、6歳頃、いつものように父と野山や海辺の散策に出かけた時のことでした。農道を歩いていた父がふと足を止め、「何か気づいたか?」と言うのです。
一瞬、戸惑いましたが、咄嗟に「足元の轍の間に菫が咲いています」と答えたところ、父は「それが大事だ。小さな花に気がつく人になりなさい。その菫の花に何かを感じる人になりなさい」と。つまり身の回りのことに気がつく注意力、美しいものを美しいと感じる豊かな感性がなければ、剣道は本物になっていかないということですね。
(本記事は月刊『致知』2024年12月号 特集「生き方のヒント」より一部を抜粋・編集したものです)
↓ インタビュー内容はこちら!
◆代々の流儀を後世に引き継ぐ
◆「菫の花に何かを感じる人になりなさい」
◆率先垂範して生き方を示す
◆人間教育としての剣道を取り戻す
◇馬場欽司(ばば・きんじ)
昭和19年長崎県福江市(現・五島市)生まれ。長崎県立五島高校、国士舘大学体育学部卒。関東、全日本学生優勝大会で2回優勝、全国教職員大会で2回、国体・全日本都道府県対抗で優勝、全国教職員大会にて東京チームの監督を務め優勝するなど実績を残す。海外の剣道指導にも尽力。ブラジル・サンパウロ議会議長賞、ブラジル・サンパウロ議会賞授与。平成27年国士舘大学名誉教授・感謝状受賞。古流越後流居合抜刀術宗匠。剣道教士七段。著書に『剣道藝術論』『続 剣道藝術論』(共に体育とスポーツ出版社)『伝統の技術』(剣道日本社)。