2024年11月01日
◎各界一流プロフェッショナルの体験談を多数掲載、定期購読者数No.1(約11万8,000人)の総合月刊誌『致知』。人間力を高め、学び続ける習慣をお届けします。
都市と地方の格差拡大が叫ばれて久しい。教育分野で顕著ですが、その主因は教師と学生の〝意識〟の差だ、と口を揃える人物がいます。高校女子バレーの無名校を在任中に全国制覇10回の強豪に育て上げた国分秀男氏。定員割れに喘いでいた私学に赴任し、塾に頼らず東大理科Ⅲ類ほか最難関大学への進学者を続々輩出する本田哲朗氏。不可能とも思える夢を実現したお二人に共通する「指導者としての原点」に迫ります。
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あの出逢いがあってのいま
〈国分〉
本田先生と最初に会った時のことは、はっきり覚えています。
1990年の3月、古川商業高校(現古川学園中学校・高等学校)の体育館でした。僕は46歳、女子バレーボール部の監督として全国優勝を5回経験した頃でした。
練習中、見知らぬ青年が傍に現れて「練習を見学させてください」と言う。それが本田先生でした。
〈本田〉
前任校を辞め、予備校講師として再出発して間もなく、古川商業(古商)の校長先生と縁ができたんです。36歳でした。
〈国分〉
驚いたのは「どうしてここに来たの?」と聞いたら
「バレーボールで全国制覇をしている学校だからです。日本一になる土壌がある」「夢は大学日本一、東京大学合格者を出すことです」と。
内心、「バカも休み休み言え、この学校から東大なんて夢のまた夢だ」と思いました。当時の古商はいわゆる学力底辺校でしたからね。宮城県も福島県も公立至上主義で、私立高校に行くのは学力の低い子、あるいは志望の公立校に落ちた子というイメージがついていて、何となく意識も低い。
〈本田〉
おっしゃる通りです。
〈国分〉
でも、反論は呑み込んだんです。なぜなら、眼が只者ではなかった。志に燃えていた。何か思い詰めたような、真剣な眼。昔の自分を見ているようでした。
28歳で古商に転勤してきた時、私は新入職員歓迎会のスピーチで
「日本一のバレーボールチームをつくるために来ました」と言ったんです。すると「この若造、何言ってるんだ」という感じで睨みつけられてね。僕だけ二次会に誘われませんでした(笑)。
でも、その言葉は現実になりました。だから僕があなたの夢を否定しちゃダメだと思いましたね。
〈本田〉
私が今日こうしてあるのは、国分先生との出逢いあってのことだなとつくづく思います。
お目にかかった時は正直、唖然としました。体育館の床は傾いているし窓ガラスは割れている。もうボロボロで、練習で使えるのはコートの半分だけでしたよね。
〈国分〉
まだ学校にもお金がなくてね、練習環境は劣悪でした。
〈本田〉
そういう中で真剣に指導をしておられた。あの時の姿は脳裏に焼きついています。あれから、自分が落ち込む度に支えていただいて……まさに国分先生の背中を追いかけてきた半生でした。
◉『致知』11月号 特集「命をみつめて生きる」◉
対談〝「地方から頂点への挑戦 子供たちの命を輝かせる教育」〟
国分秀男(東北福祉大学元特任教授)
本田哲朗(福島成蹊学園理事長・校長)
↓ 対談内容はこちら!
◇東北の地で教育の固定観念を打ち破る
◇あの出逢いがあってのいま
◇知恵と工夫、努力が頂点への道を拓く
◇教師の本分を貫きたかった
◇「あんたの言葉には夢がない、力がない」
◇東北の無名校、かくして栄冠を掴む
◇教師は目の前の生徒しか教えられない
◇いかにして自信を育てるか
◇思えば則ち之を得る
◇子供が自分に克つ力をつけさせる
◇教育の世界では錬金術は成り立つ
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◇国分秀男(こくぶん・ひでお)
昭和19年福島県生まれ。慶應義塾大学卒業後、京浜女子商業高等学校(現・白鵬女子高等学校)を経て、48年宮城県の古川商業高等学校(現・古川学園中学校・高等学校)に奉職。商業科で教鞭を執る傍ら、女子バレーボール部を指導。全国大会出場77回、うち全国制覇10回。平成11年には史上5人目の3冠(春、夏、国体)の監督となる。8年から春夏とも4年連続決勝進出という高校バレー史上初の快挙を成し遂げる。
◇本田哲朗(ほんだ・てつろう)
昭和28年福島県生まれ。東京理科大学理学部化学科卒業、同大理学専攻科修了。52年聖望学園中学・高等学校教諭、平成2年古川商業高等学校(現・古川学園中学校・高等学校)教諭、教頭を経て16年に福島成蹊学園高等学校に教頭として着任。20年中高一貫コース開設に尽力。同年校長に就任し、令和6年3月より学校法人福島成蹊学園理事長を兼務。