2024年10月11日
◎各界一流プロフェッショナルの体験談を多数掲載、定期購読者数No.1(約11万8,000人)の総合月刊誌『致知』。人間力を高め、学び続ける習慣をお届けします。
中国料理界の巨匠と称される脇屋友詞氏が料理の道に入ったのは15歳の時。厳しい修業に打ちのめされそうになりながら、あるスキー場でたまたま出合った一枚の色紙に書かれていた言葉が「この道より我を生かす道なし この道を歩く」でした。氏はこの言葉との出合いをいかに生かしてきたのか。そこから掴み取った知恵とは。人生を決した出合いについて振り返っていただきました。
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「背中に目をつけろ、耳はウサギの耳だ」
──(入社から)3年半、鍋だけを洗い続けられた。
〈脇屋〉
はい。特に最初の1年間は惨めでしたね。
世の中に自分ほど駄目な人間はいないと思い詰めて、最初の年末、気分転換に新潟にスキーに行ったことがあります。そして、何気なく立ち寄ったレストハウスの土産物売り場で額に入った1枚の色紙を見つけるんです。こう書いてありました。
「この道より我を生かす道なし この道を歩く」
この言葉を見た瞬間、背筋がザワザワとし、この言葉から目が離せなくなったんです。
そして、大事なのは何を選ぶかではない。何かを選ぶことだ。「これこそが自分の道だ」と覚悟を決めることができていなかったことに気づいたのです。
数百円で買ったこの武者小路実篤の色紙はいまも大切に店に飾っていますが、もう駄目かと思っていた僕にとってはまさに救いの言葉でしたね。人生が大きく変わったのは、15歳の時のこの気づきがあったからです。
──仕事では、どのような変化がありましたか。
〈脇屋〉
一つには、指に鍋ダコができた頃から、あれだけ持てなかった鍋が普通に持てるようになり、洗う速度が上がったことに自分でも驚きました。それから「背中に目をつけろ、耳はウサギの耳だ」と先輩に教えられたことの意味が少しずつ理解できるようになりましたね。
鍋を洗いながら親方に意識を向けていると、振る鍋のリズムが変わり、玉杓子を打ち付ける間隔が短くなったことが分かる。「ああ、炒め物が仕上がってきたな」、そう思ったらすぐに鍋洗いの手を止め、「ユウジ!」と声が掛かる前に、積み上げられた大皿の中から1枚を取り、親方の手許に滑り込ませる。料理が盛られた大皿をサッとホールの係に渡す……。誰に教えられなくてもそんな動きができるようになりました。
いま調理場がどう動いているか、背中で起きていることが見え始めたんです。
──日々の地味な鍋洗いを通して、大切な仕事のヒントを会得されたのですね。
〈脇屋〉
親方は直接料理を教えてくれませんから、朝、誰もいない厨房で密かに料理をつくったりしたのもその頃です。先輩のやり方を見て覚え、グランドメニューはほぼマスターすることができました。鯉を調理した時など、形跡を残さないために一尾丸ごと食べるのは大変でしたけれども(笑)。
そりゃあ、汚れた鍋を洗う仕事は誰だって嫌ですよ。だけど、それを好きになるところから道が開けるのではないかと僕は思います。
人間関係も同じで、あれだけ厳しかった親方が、僕が呼吸を合わせるようになると気に入ってくれて、休憩時間に喫茶店に連れ出してくれるようになりましたからね。何か通じるものがあったのでしょう。
◉『致知』10月号 特集「この道より我を生かす道なし この道を歩く」◉
インタビュー〝「一つの道を選びその道を歩き続ける」〟
脇屋友詞(中国料理シェフ)
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◆中国料理の道を半世紀歩き続けて
◆「おまえには食の神様がついている」
◆「背中に目をつけろ、耳はウサギの耳だ」
◆客の入らないレストランを発想の転換で人気店に
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◇脇屋友詞(わきや・ゆうじ)
昭和33年北海道生まれ。中学卒業後「山王飯店」や「楼蘭」、東京ヒルトンホテル/ザ・キャピトルホテル東急「星ケ岡」等で修業を積み、27歳でリーセントパークホテル「楼蘭」料理長、平成4年に同ホテル総料理長。8年「トゥーランドット游仙境」代表取締役総料理長に就任。13年「Wakiya一笑美茶樓」を、令和5年「Ginza脇屋」をオープン。平成22年「現代の名工」受賞。25年黄綬褒章を受章。著書に『厨房の哲学者』(幻冬舎)。