2023年08月18日
現代日本を代表する洋画家・野見山暁治さんが2023年6月22日、102歳で亡くなられました。2023年5月1日発刊の弊誌6月号インタビューでは、いまなお衰えない創作意欲、これまでの人生の歩みを生き生きと語ってくださっていました。野見山さんのご冥福をお祈りし、弊誌記事より画家としての原点となったエピソードをご紹介します。
画の道へ導いてくれた恩師
――画家になられるまでの歩みをお話しください。
〈野見山〉
中学に進むと美術部に入ったのですが、その先生がまた熱心な人でね。学校が終わると、夜は自宅に生徒を招いて指導するくらいの熱の入れようでした。東京美術学校(現・東京藝術大学)の卒業生で「日本画だったら美校に通るように指導してあげる」と確信を持って僕に言ってくださいましたよ。
ところが、僕は油絵のほうに進むことにしましたから、それならというので何人かの知人に聞いてくれたのでしょう。美校入試までの半月間、美校の小林萬吾先生がやっている東京の塾で学ぶように薦めてくれました。その頃は美校を受験する生徒の多くがこういう塾で学んでいたんです。
いざ塾に入ると、驚きましたね。皆が描く石膏像のデッサンはまるで図画のお手本みたいで、やさしい光に包まれるような感動がありました。僕の作品はというと歌舞伎役者が隈取りしたような顔になっている。指導に当たる助手から「おまえは初めて石膏像を描いたのか」と軽蔑の眼差しで言われましたが、そう言われても仕方がないくらい僕の絵は見劣りがしたんです。
――悔しかったでしょうね。
〈野見山〉
半月の勉強が終わる頃、コンクールをやることになって、助手から序列順に作品が並べられました。小林先生がやってきて、優秀な作品から順番に見ながら批評をしていかれる。そのうち一番最後のほうに並んでいた僕の作品にふと目を留めて「これは誰が描いたのか」と質問されました。この時ばかりは「出て行け」と怒られるのを覚悟しましたよ。
ところが、先生は「君はどんな先生に習った?」「どこの学校でどんな勉強をした?」としつこく質問した後、こうおっしゃるんです。「皆さんの作品は石膏像が持っている立体感をよく表している。ただ、石膏像そのものが持つ重さが表現できているのはこの作品だけだ。素晴らしい絵だ」と。これには僕も言葉がありませんでした。
いま思うと、しつこく質問したのは、先生が僕を美校に入れたいと思われたからでしょう。
――それで無事に美校に。
〈野見山〉
当然ながら僕は小林先生の教室に入るつもりでした。ところが研修生たちが「素人のような学生が入ってきたよ」と僕をあざ笑うように話すのを聞いて、別の先生の教室に行くことにしました。小林先生には本当に申し訳なく、惜しいことをしたといまでも思っています。
「世の中には色というものがあったんだ」
――大学生活を過ごされたのは確か戦争の最中ですね。
〈野見山〉
ええ。美校では油絵を学んでいましたが、1943年、戦争で繰り上げ卒業になり、旧満州(中国東北部)に出征することになりました。既に日本の敗色が濃厚になっていた頃で、初歩の訓練もそこそこに外地に赴きました。そこは一面寒々とした灰色の世界ですよ。立っているのは枯れ木ばかりで、葉っぱはまるでない。土も凍りついていて全く色のない世界でした。
ある日の夕方、岡の上にある兵舎から下りていく用事があって歩いていたら、地面に赤い色が滲んでいるのが見えました。何だろうと思って、上にかぶさった氷を軍靴の先で削り落としたらミカンの皮が出てきたんです。
――ミカンの皮が。
〈野見山〉
そのミカンを手に取って「世の中には色というものがあったんだ」と、その時はもう震えるような感覚でした。
僕は外地に来て「こんなに色のない世界に来たのは間違いだった。日本のアトリエに帰ればいろいろな絵の具がある」と本気で逃げて帰ろうと考えました。しかし、汽車で3日も4日もかかるところを、吹雪と寒さと空腹に耐えながら歩いて帰るなんて不可能ですよね。その現実に直面した時、「ひと目、色のある世界を見たら死んでもいい」と強く思いました。ミカンの皮を見て心が震えました。
やがて仲間は南方へ向かい、そこでは多くの仲間を失い、自分も生きて帰れないと思っていましたが、僕は中学の頃から病んでいた胸の病気が悪化したことで内地送還され、終戦を迎えたんです。
独自の抽象表現への目覚め
――戦後はどのように絵と向き合っていかれましたか。
〈野見山〉
戦争が終わって7年後、1952年にパリに留学しました。僕はずっとパリに行くことばかりを考えていて、炭鉱を営んでいた父が渡航費や学費を用立ててくれたんです。
やがて、船が地中海に入ってナポリ辺りの明かりが見えた時、涙がポロポロと溢れましてね。というのは、本場のパリで絵の勉強をしたいというのは、僕だけでなく油絵を描く連中の夢でしたから。ひたすら夢を追いかけてパリに来てみたものの、パリに憧れたまま戦死していった仲間のことを思うと慙愧(ざんき)の念に堪えませんでした。
僕は終戦から20年以上経った後に、ふとしたご縁で戦没画学生の絵を集めた「無言館」(長野県上田市)という美術館の設立に携わるようになるのですが、遺族の家を訪問して彼らの日記やスケッチブックを見せてもらうと、例外なしに
「僅か3日間でもいい。乞食(こじき)をしてもいい。パリの町を見たい」
「フランス画壇の絵をひと目見て死にたい」
ということが書かれてある。それを思うと、自分だけがパリに来ていいのか、とやるせない思いに駆られました。
――パリにはどのくらいいらっしゃったのですか。
〈野見山〉
12年間いました。
いまも思い出すのは留学して7年後、パリの東洋博物館に足を運んだ時、そこに飾られた北宋や日本の掛け軸を見て「ああ、これはいいものだな」と感動したんです。どこにでもありそうな山水画でしたけど、「この素晴らしい東洋の文化になぜいままで気づかなかったのだろう」と思いました。それからすぐに日本の友人に手紙を書いて日本や中国の画集を送ってもらい、自分が求める絵を探り始めました。
山や川などを明確に分けることをしないで、画面一体を一つのものとして捉える僕ならではの抽象表現は、こういう東洋の絵にヒントを得たものなんです。
後から思うと、藤田嗣治にしろ岡田謙三にしろ猪熊弦一郎にしろ、海外に渡った画家たちは日本を離れて7、8年した頃から日本の絵を描き始めている。「海外でうだつが上がらないからジャポニカ調になった」と批判する人もいるが、そうではないことが僕には分かるんですね。皆、ある時「これは違う」とハッと気づき、自分が求めるべき王道を掴むんです。
(本記事は月刊『致知』2023年6月号 特集「わが人生の詩」一部抜粋・編集したものです)
◉野見山さんのインタビューは【致知電子版】にて全文をお読みいただけます。詳細はこちら
◇野見山暁治(のみやま・ぎょうじ)
1920年福岡県生まれ。1943年東京美術学校(現・東京藝術大学)油画科を卒業。応召。戦後は1952年より渡仏。1956年サロン・ドートンヌ会員。1958年安井賞受賞。1968年東京藝術大学助教授就任。後に教授。1977年『祈りの画集』(共著、日本放送出版協会)出版。1992年第42回芸術選奨文部大臣賞など受賞多数。2000年文化功労者。2014年文化勲章受章。
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