2023年05月18日
5年後の生存率0%という悪性小児がんが堀内詩織さんを突如襲ったのは、2003年3歳の時でした。しかし、母・志保さんの懸命な介護、そして地元・高知のお祭りで「よさこい」を踊りたいという強い思いを胸に、詩織さんは辛い抗がん剤治療に耐え、様々な人生の苦難を乗り越え、現在に至っています。そんな二人の壮絶な歩みを語っていただいた対談記事の一部をご紹介します。
突然のがん宣告
〈志保〉
詩織が小児がんだと分かったのは2003年。幼稚園の健康診断で尿検査をしたら、「タンパクが下りている」と言われて、近くの病院で再検査を受けたのがきっかけでした。ただ、その時には問題がなくて、「一週間後にもう一度来てください」と、検査キットを渡されて自宅に帰ったんです。
その後、幼稚園から帰ってきた詩織の紙パンツに赤い尿がついていたことがあったのですが、家族も「赤いジュースでも飲んだんじゃない?」という感じでした。
〈本誌〉
最初の頃はそれほど深刻に考えてはいなかったのですね。
〈志保〉
ところが、次第に血尿が出るようになり、さすがにおかしいと思って、検査キットを刺してみたところ、尿の中に血の塊(かたまり)がボコボコ出てきたんですよ。翌日、病院に行ったら、あれよあれよという間に検査、検査で帰れません。
その段階でも、私はまだ酷い腎炎かなくらいに考えていたのですが、病院の先生が「いや、そんな状況ではないです。片方の腎臓に大きな腫瘍があるので、早急に手術しなければなりません」と。
結局、詩織は手術日の朝から高熱を出して、「うちでは手術できません」ということで、急遽、別の病院の先生を紹介されました。その方がいまも診みていただいている主治医なのですが、そこで「腎臓のがん」だと言われたんです。
〈本誌〉
ああ、がんだと。その宣告をどう受け止められましたか。
〈志保〉
最初の病院ではそんなこと聞いていませんから、「え?」っていう感じでした。しかも、ウィルムス腫瘍という年間50人ほど患者さんが出るがんですが、80%は治っていますから、とにかく手術をしましょうと言います。
で、手術をお願いしたんですけれども、術後1週間ほど経った頃に、現在は別れた当時の夫と共に先生から呼び出されましてね。年間50人ほど患者さんが出る腎臓がんの中でも、特に2、3人しか発症しない悪性度の高い「腎悪性横紋筋肉腫様腫瘍」で、進行も非常に早いと説明されたんです。
先生に見せていただいた資料には、いくつかの病気の年次生存率が記されていました。例えば、白血病には3年後、5年後の生存率が記されてありましたが、詩織の病気にはそれがない。先生に質問すると、残念ながらこの病気で5年後に生きた子は1人もいないという返事が返ってきたんです。
もう血が逆流するような衝撃を受けました。そこから、私たちの闘病が始まったんですね。
我が子のためには何でもやる
〈志保〉
手術をした病院で抗がん剤治療をしながら、私は詩織を何とかして助けたいとの一心で、東京の聖路加国際病院などあらゆる先生のもとを訪ね、いろんな学会にも参加しました。でも、ほとんどの先生から「悔いのない生活を送らせてあげてください」「治った前例はありません」と言われました。
〈本誌〉
それは辛いですね……。闘病する幼い詩織さんには、どのように寄り添っていかれましたか。
〈志保〉
親からすれば、明日にでも別れが来るかもしれないと思っていますから、この子の望むことは何でもさせてあげようと決めました。これはというおもちゃは毎日買ってあげましたし、病院でアンパンマンのバイクに乗せたり、ウエディングドレスを着せたり……。そんな中、救いだったのは詩織が治療中でも明るかったことです。
抗がん剤で髪の毛が抜けた時も、本人は抜けた髪を掴んでは飛ばしながらはしゃいでいました。もし詩織が辛い、苦しいと泣いてばかりいたら、私も耐えられなかったでしょう。やっぱり、小さい頃から根性のある子なんです。最初は詩織の寝顔を見ては、泣いてばかりいたのですが、「詩織がこんなに辛い治療を受け入れているのに、私たちが泣いている場合じゃない」と思うようになりました。
〈本誌〉
詩織さんの明るさが心の支えになったのですね。詩織さんは当時のことは覚えていますか。
〈詩織〉
3~5歳のことなので、ほとんど記憶にないんです。ただ、「ディズニーランドに寄るから、これ一緒に行かない?」って、医療関係の学会に連れて行かれたことは何となく覚えています。
〈志保〉
まあ、そうして抗がん剤治療を続けて、入院生活は2年余り続きました。そしていよいよ退院するとなった前日、CTを撮ったのですが、右肺に影がある、転移している可能性が強いということで退院は延期になったんです。
〈本誌〉
ああ、退院を目前に。
〈志保〉
転移の可能性があると言われたのが、ちょうどこの春の季節でした。ですから、この季節がやって来ると、その時のことを思い出していまも嫌な気持ちになります。トラウマというのは、何年経っても消えないんですね……。
それで「転移していたらどうしよう」って、またいろんな病院を走り回りました。最初に診てくださった主治医は香川県の大学病院に移っていたのですが、やっぱりその先生が安心だということになり、香川で手術を受けました。すると、実際は転移ではなく、抗がん剤治療によって誘発された結核だということが分かりました。
〈本誌〉
それはひと安心ですね。
〈志保〉
しかし、それから「転移」「再発」ということを意識するようになりまして、セカンドオピニオンで聖路加国際病院に足を運んだところ、アメリカで最新の治療薬ができたことを教えていただいたんですね。再発はしていないけれども、新薬を試してみたいという思いが湧き上がってきました。今回は結核だったとはいえ、いつどうなるか分からない、何もせずに再発を待つのは嫌だったんです。
〈本誌〉
詩織さんのため、親としてやれることは何でもやろうと。
〈志保〉
ただ、高知に戻って主治医に「新薬を試してみたい」と相談してみると、「お母さん、娘さんを殺すつもりですか? 再発してもいないのにこの薬を使えば、再発した後に使う薬がなくなってしまいます」と猛反対されました。
それでも、何度も話し合いを重ねた末に、最後は「その代わり責任はとれませんよ」ということで理解してくださったんですね。
周りからは「あの人は医者の言うことを聞かない」と散々言われましたけれども、結果的には転移や再発はせず、詩織は5年を超えて生きることができたんです。
〈本誌〉
我が子を何としても助けたいとの思いが奇跡を起こした。
〈志保〉
新薬が効いたのか、何がよかったのか分かりません。でも悔いは残したくないとの思いでひたすら生きていたのは確かです。
★(本記事は月刊『致知』2023年5月号「不惜身命 但惜身命より」一部抜粋・編集したものです)
◎堀内志保さんと詩織さんの母子対談には、
・終わらなかった試練の日々
・人に生きる力を与えられる人になりたい
・苦しかったのは闘病だけではない
・死んでもいいから「よさこい」を踊りたい
・人間は乗り越えられる試練しか与えられない
など、壮絶な闘病体験から得た母子の絆、そして一度きりの人生を悔いなく生き切る要諦を学びます。本記事の詳細・ご購読はこちら【「致知電子版」でも全文をお読みいただけます】
◇堀内志保(ほりうち・しほ)
高知県生まれ。平成12年、詩織さんを出産。3年後に詩織さんに悪性の小児がん「腎悪性横紋筋肉腫様腫瘍」が見つかり、5年後の生存率はゼロ%と宣告される。以後、15歳で新たに見つかった心臓疾患を含め、詩織さんの闘病を支え続ける。
◇堀内詩織(ほりうち・しおり)
平成12年高知県生まれ。15年に悪性の小児がん「腎悪性横紋筋肉腫様腫瘍」を発病。5年後の生存率はゼロ%と宣告されるも、母の介護、様々な人の支え、「よさこい」を踊りたいという強い思いを生きる力に医学の常識を覆す。その姿は22年に公開された映画『君が踊る、夏』(東映)のモチーフともなった。
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