2021年05月23日
若い頃から京セラ創業者・稲盛和夫氏の薫陶を受け、その教えを経営・人生に生かしてきたアスカコーポレーションの阪和彦会長。稲盛氏との真の出会いを果たしたのは、ある講話テープを聴いたことだったといいます。その衝撃の内容とは——。
【特集「追悼 稲盛和夫」を発刊しました】 ◎各界一流プロフェッショナルの珠玉の体験談を多数掲載、定期購読者数No.1(約11万8,000人)の総合月刊誌『致知』。あなたの人間力を高める、学び続ける習慣をお届けします。 たった3分で手続き完了、1年12冊の『致知』ご購読・詳細はこちら。
去る8月24日、稲盛和夫・京セラ名誉会長が逝去されました。35年前、1987年の初登場以来、折に触れて様々な方との対談やインタビューにご登場いただくのみならず、たくさんの書籍の刊行、数々のご講演を賜るなど、ご恩は数知れません。
生前のご厚誼を深謝し、月刊『致知』12月号では「追悼 稲盛和夫」と題して特集を組みました。豪華ラインナップは以下特設ページよりご覧ください。
※購読動機は「③HP・WEB chichiを見て」を選択ください
塾長に教えられた経営者の覚悟
〈阪〉
私は光陽鍍金工業所の元請けだった上田鍍金(京都)に入社。上田鍍金は大手企業の協力会社として事業を行っていたのですが、1969年にその大手企業と共に九州に進出し、上田鍍金工業所として独立しました。
事業は次第に九州全体に広がり、私は1989年に43歳で社長に就任。1993年には社名を現在の「アスカコーポレーション㈱」に変更しました。
そして、盛和塾の存在を知ったのもこの頃でした。関係先に挨拶回りする中で、京セラ資材部の部長さんに「盛和塾という勉強会がある」と教えられ、稲盛塾長の講話テープをいただいたのです。
その講話テープ「勇気と創造」の一節には、稲盛塾長が社員を連れて比叡山に行く話が出てきました。稲盛塾長がドライブウェイの休憩所で社員と親睦を深めていると、暴走族に絡まれ、社員が傷つけられそうになります。その瞬間、稲盛塾長は持っていたビール瓶をかち割り、「社員を傷つけたら、俺はお前を刺すぞ!」と言わんばかりの気迫で暴走族を追い払うのです。この話を聴いた私は、「稲盛塾長にもこんな経験があったのか」「経営は社員のために命を張ってやるものなんだ」と衝撃を受けました。
それで「盛和塾に入ろう」と決意し、すぐに京セラ資材部の方にお願いして盛和塾福岡をご紹介いただき、面接を経て光栄にも入塾させていただいたのです。
当時はまだ中小企業の経営者は赤字さえ出さなければいいという風潮があり、正直、私も企業理念や社員教育などに無関心で、とにかく仕事が終われば毎晩のように呑みに行っていました。稲盛塾長はそうした私の〝やんちゃぶり〟をご存じの上で、本当に親父のように親身に面倒を見てくださいました。
初めて参加した塾長例会で決算書を見せると、稲盛塾長に「食べたり呑んだりする交際費はお前のものじゃないんだぞ。経営が分かっているのか!」とこっぴどく叱られました。その後も、例会の度に稲盛塾長の席の横に座らせていただき、「まだ改善されていないじゃないか。いまから会社に戻って現場に入れ!」と厳しくも愛情溢れるご指導をいただきました。
その中で、まず稲盛塾長から教えられた「6S」(整理・整頓・清掃・清潔・躾・整備)の率先垂範に始まり、「フィロソフィ」の導入や「誰にも負けない努力」の実行計画表の作成、社員と心を一つにする合宿などに取り組んでいきました。最初は社員たちも、「社長が変なことやりだした」と白い目で見ていましたが、1か月、2か月、3か月と続けていくと、「これは本気だ」と、皆も一緒に取り組んでくれるようになりました。
3年ほど経つと、会社全体がみるみる変わっていきました。入塾前はほとんど利益が出なかったのが、5%、10%、15%とだんだん上がっていき、調子のよい時には20%も出るようになったのです。私自身にしても、毎晩呑み歩いていたのが、毎朝5時に起きて社内の掃除をするようになったのですから、まさに人生が180度変わったと言えます。
(本記事は月刊『致知』2021年4月号 特集「稲盛和夫に学ぶ人間学」より一部を抜粋・編集したものです)
◇阪和彦(さか・かずひこ)
昭和21年京都府生まれ。39年光陽鍍金工業所入社。49年上田鍍金入社。50年上田鍍金工業所入社。平成元年同社社長。5年アスカコーポレーション株式会社へ社名変更。28年7月より現職。