児玉源太郎と後藤新平 二人の先人に見る危機下のリーダシップ(渡辺利夫)

新型コロナウイルスの世界的な感染拡大はいまだ衰えを知りません。政治、経済、歴史など様々な分野に通暁する拓殖大学学事顧問の渡辺利夫さんに、かつて日本を感染症から守り抜いた先人二人の軌跡と、いま求められる危機対応の要諦を示していただきました。
※表示画像は後藤新平(左)児玉源太郎(右)Ⓒ国立国会図書館HP「近代日本人の肖像」

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児玉と後藤に見るリーダーの器量

〈渡辺〉
今回のコロナ禍で私の頭を過ったのは、感染症の脅威から日本を守ってきた先人たちの歴史的事例です。

特に児玉源太郎、後藤新平という二人のリーダーが日清戦争後、戦地から凱旋してくる数多くの兵士に対して実施した検疫事業は、感染者への対処、危機に際しての指導者の立ち居振る舞いという観点からして、日本人が改めて思い起こすべき教訓と示唆に満ちています。

日清戦争による犠牲者は、戦死が1,417人である一方、病死は11,894人でした。特にコレラの感染が多かったといいます。様々な感染症に罹患している可能性のある兵士ら約24万人が、687隻の船舶で凱旋してくる。これは日清戦争で国力を使い果たしていた日本の緊急事態でした。

この危機対処の指揮官となったのが陸軍次官の児玉源太郎です。事業予算確保への目途はつけたものの、行政的手腕に優れ、かつ専門的知識を持つ者はいないかと児玉は目を凝らします。そこで着目したのが、ロベルト・コッホ研究所に留学経験があり、内務省衛生局長を務めた後藤新平でした。

実は当時の後藤は「相馬事件」と呼ばれる奇怪なお家騒動に巻き込まれて連座し、入獄。後には無罪を言い渡されますが、衛生局長を辞任して浪々の身を託っていました。それでも児玉は後藤を抜擢します。一目会うや、「この男なら帰還兵24万人を任せられる」というのが児玉の直感でした。

後藤もまた相馬事件で酷い目に遭った経験からもう役人はこりごりだと、児玉の申し越しに最初は逡巡します。しかし児玉の威厳と器量に圧倒され、最後は検疫事業に携わることを決めるのです。

検疫事業の成功を支えたもの

かくして児玉・後藤による大検疫事業が開始されます。

検疫の場所には広島県宇品の似島、大阪の桜島、下関の彦島の三つの離島を設定。兵舎の造営はもとより蒸気式消毒缶と呼ばれる大型のボイラーを導入して対処することに決まりました。消毒缶の設置は、後藤が衛生局時代に共に働き、ロベルト・コッホ研究所でも起居を共にした、当時既に細菌学者として名を成していた北里柴三郎の助力を得ることで可能となりました。

1日に600人を超える兵士を消毒缶で15分、60度以上の高熱に耐えさせコレラ菌を死滅させるという設計でした。さらに船舶消毒、沐浴、蒸気消毒、薬物消毒、焼却施設、火葬場まで建設。徹底した対策を講じます。後藤は命の危険が伴う最前線に立ち、不眠不休で陣頭指揮を執り続けました。

しかし、時間も手間も掛かる検疫手順に、一刻も早く故郷に勝利の錦を飾りたい帰心矢の如き兵士たちの不満が募っていきます。「これがあの酷い戦争を戦い抜いた兵士を迎えるやり方か!」と、現場で指揮を執る後藤に対する非難には轟轟(ごうごう)たるものがありました。

この暴動寸前の状況を制したのも、果断をもって知られる児玉の権威と機略でした。旅順に出陣していた征清大総督の小松宮彰仁親王が5月22日に凱旋される。親王を説得し、兵士と同じ手順で検疫に臨んでいただければ皆の不満は一気に収まるだろう、というのが児玉の考えでした。実際、親王が説得に諾として応じたことで、全兵士の憤懣(ふんまん)は収まり、検疫事業は再開されることになります。

難題を果断に次々と解決していく児玉の非凡な判断力を見た後藤は、改めてこの人物についていこうと臍を固めたことでしょう。

記録によれば、僅か3か月間で687隻、232,346人を検疫し、検疫所で罹患が証明された兵士の数は真性コレラ369人、疑似コレラ313人、腸チフス126人、赤痢179人に上りました。この数の罹患者が検疫なくして国内各地に帰還していたなら、被害は深刻なものになったはずです。

いまも昔も変わらない国家危機対応の要諦

児玉と後藤の検疫事業から見えてくる明治の教訓は、主に二つあると私は思います。

一つには、コレラという当時はまだ有効な治療法がなかった感染症に対して、限られた資源を能う限り迅速果断に凝集し、事態に対処しようとする危機管理意識を指導者が共有していたことです。あるいは、共通の危機意識を創り出すリーダーシップ、この人にならついていきたいと思わせる人間力が指導者に備わっていた。

二つには、事態の対処に当たる指揮官に有力な人材を抜擢・配置し、彼らに現場指揮の全権を任せて事に臨むということです。特に専門知識と行政能力を兼ね備えた人物をトップに据える。そして、細かいことは言わず、現場の判断を信じ切り、任せ切る。そこには、自らの判断が正しいかどうかは後の歴史が証明する、という気概と豪気もあったのだろうと思います。

もちろん、明治と現代では、民主制度・機構、人権・私権尊重といった点で大きな隔たりがあり、単純には比較できないことは確かです。しかし、国家緊急事態における危機対応のエッセンスは、いまも昔も変わらないはずです。


(本記事は月刊『致知』2020年9月号 特集「人間を磨く」より一部を抜粋・編集したものです)


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◇渡辺利夫(わたなべ・としお)
昭和14年山梨県生まれ。慶應義塾大学卒業後、同大学院修士課程修了、博士後期課程満期取得退学。経済学博士。筑波大学教授、東京工業大学教授、拓殖大学学長、第18代総長などを経て、現職。外務省国際協力有識者会議議長、アジア政経学会理事長なども歴任。JICA国際協力功労賞、外務大臣表彰、第27回正論大賞など受賞多数。著書に『神経症の時代─わが内なる森田正馬』(文春学藝ライブラリー)『士魂─福澤諭吉の真実』『死生観の時代』(共に海竜社)『台湾を築いた明治の日本人』(産経新聞出版)などがある。

◆児玉源太郎(こだま・げんたろう)
嘉永5(1852)年~明治39(1906)年。戊辰戦争、西南戦争で活躍し、参謀本部、陸軍大学校で兵制の近代改革を推進するなど陸軍の基礎を築く。陸軍大臣、内務大臣、文部大臣を歴任するほか、台湾総督として台湾の近代化に尽力した。

◆後藤新平(ごとう・しんぺい)
安政4(1857)年~昭和4(1929)年。明治15年内務省衛生局に入局。31年台湾民政長官。39年南満洲鉄道初代総裁。その後内務大臣、外務大臣等国の要職を歴任。大正9年東京市長に就任し、近代都市としての礎を固めた。

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