末期がん療養中に襲った「3.11」。松野三枝子さんに起きたある奇跡

2006年、53歳で末期がんを宣告された松野三枝子さんは、東日本大震災の発生当時、後に津波で壊滅的な被害を受ける南三陸町の病院に入院中でした。間一髪で命を助けられ、翌日から重篤な状態にあった体を必死に動かし炊き出しを開始。すると3か月後の精密検査で、全身に驚くべき変化が起きていたといいます。これは大きな悲しみの中で生まれた、貴重な証言です。

3月11日、14時46分

〈松野〉
あの日のことは忘れもしません。2週間ぶりに点滴の針を抜いてお風呂に入れることになり、一人で浴槽に浸かっていた時でした。14時46分、激しい揺れが襲い、湯船の中でグルングルンと引っ掻き回されました。

私は昭和35年、小学校1年生の頃に三陸海岸を襲ったチリ地震の津波で3歳だった妹と祖母を亡くしています。その経験があったため、地震が来た瞬間、海から400メートルしか離れていない病院の3階にいた自分は助からないと半ば諦めました。

ところが最後のダダンッという大きな揺れによって、私はお湯と共に廊下に放り出されたのです。たまたま看護師さんが私を見つけてくれ、必死にバスタオルを1枚体に巻きつけ、2人で屋上めがけて走りました。窓から外の様子を見ると、5メートルはあった防潮堤の上に、真っ黒い津波が押し寄せるのが見えました。

病院は市内で比較的高い建物だったため、近所の方も避難してきており、院内は大混雑。何とか非常階段に辿り着き、3段目に足を掛けた時でした。ゴゴーッという恐ろしい音と共にものすごい勢いの水が押し寄せてきたのです。

私は上にいた方に手を引っ張っていただき、間一髪で水に呑まれずにすみましたが、すぐ後ろにいた方や点滴を刺したまま階段にうずくまっていた方が、まるでぬいぐるみのように軽々と、一瞬にして水の中に消えていきました……。

やっとのことで屋上に辿り着いたものの、助かったことに安堵する間もありませんでした。目の前でどんどんと人が流され亡くなっていくのです。

ある若い男の子がガスボンベに必死にしがみついたまま病院のすぐ横に流されてきました。「助けてくれ!!」と大声で叫んでいるのが聞こえます。でも、屋上から手を伸ばしても届かない。しばらくすると濁流の中でガスボンベが垂直に立ってしまい、重さで沈み始めました。その男の子は叫びながら最後の最後まで手を伸ばしてもがいていましたが、ガスボンベと共に沈んでいきました。

その後間もなく、真っ赤な軽自動車が内陸に向かって病院の前を流れてきました。見ると若い女の子がハンドルを必死に掴みながら号泣している。おそらくエンジンが故障し、ドアも窓も開かないのでしょう。屋上にいた人たちと、山まで流されて木の枝に引っかからないかと祈りましたが、引き水になった時、その赤い車が今度は海に向かって流れていきました。

皆、助けられるものなら助け出したかったはずです。でも何もできなかった……。防潮堤の上まで車が流されたその瞬間、パシャンと海に消えていきました。屋上にはただ虚しく、幾人もの人が「わーっ」と叫ぶ声だけが響き渡りました。

こんな若い子たちが流され死んでいく。そんなことが許されていいはずがない。薬漬けで末期がんの自分があの子たちの身代わりにならなくちゃ……。

泣いている私に、看護師長さんはぴしゃりと言いました。「松野さん、泣いている暇はないんだよ! 私たちは神様から生かされた。助かった私たちは生きなければならないのよ」と。

お医者さんが絶句するほどの奇跡

南三陸町には過去の教訓から高い防潮堤がありました。しかし今回はそれが災いし、一度街に流れ込んだ海水がなかなか引かずに、一昼夜病院で過ごすことになりました。

翌日、ヘリコプターで患者輸送が始まりましたが、私の自宅は高台に位置しており津波の被害には確実に遭っていないため、患者輸送を待つよりは自力で自宅に戻り、自宅にある米で炊き出しをしよう。そう考え、歩いて帰ることにしました。

 〔中略〕

自宅の直前まで津波が押し寄せた形跡はありましたが、自宅は無事で、親族が28名避難していました。しかし、私の父など数名の安否が確認できず、翌日から町中を必死で探し歩きました。

当然、ライフライン(電気、ガス、水道)はすべて停止。そんな中でも我が家にはソーラー発電パネルがあったため電気を供給でき、自宅裏に井戸もあったので水も確保できました。そして、周辺住宅が大抵電気釜を使用していた中、我が家だけは唯一、ガス釜を使用していたことで、配線を変えるだけで何とか生活が送れる環境を整えることができたのです。

農家なので米は豊富にあった上に、フードイベント用の食材が大量に倉庫の大型冷凍庫に入っていたので、その日から炊き出しをスタートさせることができました。毎日五升釜3つでご飯を炊いて周囲に配り、私たちはおにぎりを持って父を探しに遺体安置所を回り続けました。

重病だったのになぜそんなに体を動かせたのか、自分でも分かりません。1日20種類飲んでいた薬も全部流されましたし、治療も中断しています。それでも「とにかく皆に食べさせなければ」と使命感に駆られて、自分の体調を気にする間がなかったのがよかったのかもしれません。

震災から1か月ほど経った頃、近くの中学校で炊き出しを行う私の姿が、テレビの中継で取り上げられました。するとそれを仙台の病院の主治医が見ており、

「松野さん、生きていたのか! うちで薬を全部準備するからすぐに来なさい」

と電話を掛けてくださったのです。それで薬をいただくことができました。

内陸部に位置する仙台の病院は一足先に復旧でき、6月に精密検査をしていただけたのですが、そこで奇跡が起きました。「余命はない」と言われるほど重症だったにも拘らず、全身に広がっていたがん細胞がすべて消え去っていたのです。その事実に先生のほうが驚きを隠せないようでした。

松野さんが切り盛りする農漁家レストラン「松野や」の食事


(本記事は『致知』2020年4月号 特集「命ある限り歩き続ける」より一部を抜粋したものです)

◇松野三枝子(まつの・みえこ)
昭和28年宮城県生まれ。35年のチリ地震による津波被害で、当時3歳だった妹と祖母を失う。48年19歳の時に農家に嫁ぎ、育児や家事を行う傍ら、フードイベントに出店し、郷土料理を振る舞う。平成18年53歳の時に末期がんを宣告される。23年東日本大震災の時、入院先の病院で被災。4か月後、がんが奇跡的に完治する。26年1月自宅横に「農漁家レストラン松野や」をオープン。

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