2023年07月28日
古今東西の様々な文学を読み込み、人々にその素晴らしさを伝えてきた文学博士の鈴木秀子さん。弊誌『致知』でも「人生を照らす言葉」を連載していただいています。その鈴木先生に、日本を代表する文学者である夏目漱石の名作『こころ』をやさしく紐解いていただきました。
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『こころ』のあらすじ
話の舞台は明治期の東京です。主人公の「私」は夏に鎌倉に出かけた時に、後に「先生」と呼ぶことになる一人の男性と出会います。先生のそっけない雰囲気に惹かれた「私」は、それから東京にある先生の自宅にひんぱんに出入りするようになります。先生は奥さんと二人暮らし。何で生計を立てているかも分からず、人付き合いもあまりありません。
謎めいた先生に興味が深まるばかりの「私」は、その過去を知りたくなり先生に質問するものの、来るべき時が来たらお話ししますという返事が返ってくるだけでした。
「私」は大学を卒業し、実家に帰省します。父親は大病を患っていましたが、やがて重篤となり、兄とともにその死を看取ろうという時に、「私」のもとに先生から長文の手紙が届きます。「私」の目に飛び込んできた一文は、
「この手紙があなたの手に落ちる頃には、私はもうこの世にはいないでしょう」
という衝撃的な内容でした。そこには先生の生い立ちから今日に至るまでのことが詳細に記されていたのです。
先生は幼少期に両親を失い、遺産を管理していた叔父にそれを騙し取られるなど様々な体験をしていました。叔父の裏切りは先生にとって大変な試練でしたが、先生はその後、別のある出来事をきっかけに終生、さらに苦しみ続けることになります。
先生が学生時代の頃、下宿先に家主の娘がいました。先生はいつしか恋心を寄せるようになります。そんな時、友人のKが先生にある相談をもちかけます。Kはその娘が好きだというのです。もちろん、Kは先生の心中など知る由もありません。先生は「あなたには彼女は合わない」などと理由を付けてはKと娘を引き離そうと工作し、自分はKに内緒で娘の母親に結婚の了解を取り付けてしまうのです。
それを知ったKは自殺。先生はこの娘と結婚した後も自責の念に苛まれ続けます。そして奥さん(娘)にも話せないでいたこの秘密を「私」にだけ手紙で打ち明け、明治天皇の崩御、乃木希典の殉死と時を同じくして自らも命を絶ってしまいます。
ポイントは「人」
ごく簡単にあらすじを辿りましたが、まずは原作をしっかり読んでいただきたいと思います。その前提の上で解説させていただきますと、特に若い人たちは「なぜ、先生は自殺を決意するまで自分を追い込んでしまったのか」という疑問を抱くようです。というのも、私たちの多くは忘れてしまいたいほどの出来事に遭遇したとしても、自分と折り合いをつけ、何となく自分を誤魔化しながら生きていく術を知っているからです。
私たちはふとした瞬間に嫉妬心や怒り、怨みなどの感情が反射的に湧き上がってくることがあります。しかし、それを直視し続けることはまずありません。「人間とは所詮そんなものだ」「お互い様だから」と誤魔化してしまうために、自らの業の深さになかなか気づかないのです。ところが、先生はそうではありませんでした。先生は徹底的に自分を見つめ続けたのです。そこには、いつ罪を犯してもおかしくない心の傾向、つまり心の深い闇がありました。
叔父に欺かれた当時の私は、他の頼みにならない事をつくづくと感じたには相違ありませんが、他を悪く取るだけあって、自分はまだ確かな気がしていました。世間はどうあろうともこの己は立派な人間だという信念がどこかにあったのです。それがKのために美事に破壊されてしまって、自分もあの叔父と同じ人間だと意識した時、私は急にふらふらしました。他に愛想を尽かした私は、自分にも愛想を尽かして動けなくなったのです。
これは、叔父に財産を奪われた後、「世間はどうあろうともこの己は立派な人間だ」と思っていた先生が、Kの死後、その信念が崩壊していく自分を見つめる場面です。叔父と同じような醜い部分が自分にもあると思った時、「愛想を尽かして動けなくなる」ほどの幻滅感に駆られるのです。
この先生のように、誤魔化すことなく自分の真実の姿を見つめるのは辛いものですが、実はとても大切です。自分はどうしようもない人間だ、底知れぬ暗闇を持っている人間なんだ、ととことんまで追い詰められながらも、醜い自分を素直に受け入れた時、そこに人生の逆転が起こるといわれています。それまで暗闇に思えていたものが、ある時、光に変わるのです。
これはマザー・テレサのような人でも一緒です。マザーもまた告解(その権限を与えられた神父を前に、罪を告白する場)において「自分ほどの罪人はいません」と罪を懺悔し続けたといわれています。自らの内にある醜さを受け入れたからこそ、マザーは優しく素晴らしい人物になったのだと思います。
カトリックに限らず、偉大な聖人たちは自分の罪深さを誤魔化すことなく認め、そういう自分でも神様の深い愛の中でいま、許されて生かされている、という自覚に至ります。それは同時に同じ罪人として、他人の罪をも許す力へと変わっていくのです。
〈古今東西の「名作」の言葉が教える生き方の知恵〉
(本記事は月刊『致知』2014年9月号 連載「人生を照らす言葉」から一部抜粋・編集したものです)
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◉月刊『致知』では「人生を照らす言葉」を連載中。 森鴎外、高村光太郎、トルストイ、八木重吉、原田マハ……鈴木秀子先生が古今東西の名著・名詩とともに、人生をしあわせに生きる心の持ち方をやさしく紐解きます。WEBchichiで読める過去の記事はこちらから◉
◇鈴木秀子(すずき・ひでこ)
東京大学大学院人文科学研究科博士課程修了。聖心女子大学教授を経て、現在国際文学療法学会会長、聖心会会員。日本で初めてエニアグラムを紹介し、各地でワークショップなどを行う。著書に『幸せになるキーワード』(致知出版社)『9つの性格』(PHP研究所)『あなたは生まれたときから完璧な存在なのです』(文春新書)などがある。
◉鈴木秀子先生より『致知』へメッセージをいただきました◉
私たちを取り巻く現実には、自然界を含め、あらゆる面で、急速で、大きな変化のうねりが押し寄せております。そうした日常の中で、ぶれることなく、人間として成長し続けるためには、大きな力が必要とされます。致知出版社は、40年間、月刊誌『致知』および多くの出版物を通して、この力を多くの人々に伝え続けてきました。人間として最も大切な精神力や徳を、日々の生活の中でどのように養って行き、他の人を尊重しながら、協力し合い、世に貢献していくかを、具体的に示唆する尊い役割を果たし続けてきました。こうした今の世に得難い存在である『致知』のますますのご発展をお祈りし、心からお祝い申し上げます。