2021年05月27日
田渕俊夫さんの本物の絵に初めて触れたのは、昨年、奈良薬師寺を取材で訪れ、改築されたばかりの食堂(じきどう)を見学させていただいた時でした。中央に縦横6メートルもの大きさの阿弥陀三尊浄土図が掲げられ、その左右には仏教伝来や、大和の国の風景を描いた14枚の日本画。すべての作品を横に並べると50メートルにもなるといいます。そのスケールの大きさと美しさには、すっかり圧倒されてしまいました。この15枚の「大壁画」は5年の歳月を掛けて描き上げられたといいます。喜寿を迎えられるいまなお挑戦を続けられる田渕さんの画家人生に迫りました。
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墨絵の桜がなぜピンク色に見えるのか
日本画界の重鎮で、日本美術院(院展)の理事でもある田渕さんですが、制作に当たっての苦労は絶えないようです。
『絵を描き始める時は「すごい絵を描いてやろう」という気になるんです、ところが、描いているうちに絵の具に振り回され、膠に振り回され、思うように進まなくなる。日本画の絵の具は何しろ奥が深いものですから、「こんな方法があったんだ」「ここはこのように塗ってみよう」と、いまでも毎日が発見の連続ですよ。
その時、その時が挑戦なんです』
田渕さんはさらに言葉を続けます。
『私は長く日本画を描いてきたわけですが、最終的な目標にしているのが墨絵なんです。永平寺や智積院、鎌倉の鶴岡八幡宮の襖絵を描いた頃から、特にその思いを強くするようになりました。というのは、絵の具は色で語ることができるでしょう? 緑で描けば緑の植物、赤く描けば夕日が表現できる。
ところが、墨は形と濃淡だけで、その色の深みを表現しなくてはいけない。まさに日本画の極地なんですね。それに、絵の具は失敗しても上から洗うことができますが、墨は一度失敗したら消すことができません。だから、本当の真剣勝負になってくる』
『私が2003年に発表した「爛漫」は満開のしだれ桜を墨一色で描こうという大きな挑戦でした。しかし、描いていると、自分でも不思議に思えるほど、画面の中の花びらが開いてくれるんですね。真剣勝負には違いありませんが、案外と素直にでき上がったというのが完成後の実感でした。
嬉しかったのは、墨一色の絵がピンク色に見えるという感想を多くの人たちからいただけたことです。そのような世界をこれからも追求し続けたいと思っているんです』
画家として最も大切にしてきたこと
そんな田渕さんの画家人生を貫く一つのキーワードがあります。それが「感動」です。田渕さんの声を聴いてみましょう。
『どのような絵に挑戦するにしても、絶対に忘れてはいけないものがあります。それは感動する心です。自分が感動することができなければ、人を感動させることは絶対にできません。
桜を見るにしても、蕾が膨らむ様子を見てまず感動します。花が咲き始めて満開になり、やがて散って、最後には若葉が出てくる。その一つひとつが私にとってはものすごい感動ですし、もし桜の花びらが水の上に浮いていたら、その感動は何倍にも膨らんでいきます。私は、その感動を絵で表現するために生きてきたと言っても間違いではありません』
そして、感動する心を持ち続ける上で大切なことについては、
『それはやはり常に心のアンテナを磨いておくことでしょうね。アンテナが錆びてしまっていたら、絵描きは務まらない。
これは学生でもそうですが、同じものを見て、同じことを聞いて、すぐにピンとくる者と全然ピンとこない者がいる。ピンとこないのはやはりアンテナが錆びているからなんです。アンテナが磨かれていたら、新聞からでもテレビからでも小説からでも、いろいろなヒントを得ることができるはずですよ。「俺はこのレベルでいい」と思ったら、それ以上先には進めません』
田渕さんの言葉からは、無限の前進に懸けた強い意気込みが伝わってくるようです。
(本記事は『致知』2018年4月号 特集「本気・本腰・本物」より一部を抜粋・編集したものです)
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昭和16年東京生まれ。40年東京藝術大学美術学部卒業、42年同日本画修士課程修了。愛知県立芸術大学助教授を経て、60年東京藝術大学助教授に。平成7年教授、17年副学長、21年から名誉教授。28年から日本美術院理事長。第67回日本美術院展覧会日本美術院大観賞、院展文部大臣賞、院展総理大臣賞など受賞歴多数。