「料理人になるつもりはなかった」イタリア料理のパイオニア・落合務と片岡護が語る人生の転機

今でこそ広く親しまれているイタリア料理ですが、日本に浸透したのは1980年代の半ば頃のこと。70年代にその礎を築いたのが、落合務氏と片岡護氏という二人のパイオニアです。草創期より高い視座で切磋琢磨し、予約が困難なほどの人気店を作り上げてきた一流シェフの両氏に、料理の道に進んだ経緯をお話しいただきました。

◎【残り僅か!3/31まで】お申込みくださった方に『渋沢栄一 一日一言』プレゼント!新生活応援CP実施中。この春、新たなステージに挑戦するあなたの「人間力」を磨き高めるために、人間学を学ぶ月刊誌『致知』をぜひご活用ください。

たった3分で手続き完了、1年12冊の『致知』ご購読・詳細はこちら

その体験を、辛く感じるか楽しく感じるか

〈片岡〉 
それにしても、お互いに料理人になるつもりのなかった僕たちが、お店を持って、こうしてイタリア料理について語り合っているのも不思議ですね。

〈落合〉 
本当にね(笑)。

僕はもともと勉強が好きで、大学附属の中学校で真面目に勉強していたんだけど、僕を可愛がってくれていたお祖父ちゃんやお祖母ちゃんが亡くなったり、父が3回目の離婚をするとかしないとかで、うちの中がガタガタしてきましてね。多感な時期だったから、父をちょっと困らせてやりたいと思って「学校を辞めたい」って言ったら、逆に肯定されてしまって(笑)。

ちょうどほら、帝国ホテルの村上信夫さんが東京オリンピックの総料理長に決まって話題になっていた頃で、雑誌なんかに村上さんがコック帽をかぶった写真がよく載っていたでしょう。あの姿に憧れてコックを目指すことにしたわけですよ。

〈片岡〉 
格好よかったですよね。

〈落合〉 
それで、最初に父が探してきてくれた日本橋の洋食屋さんに入り、さらに別のお店でもしばらく働いていたんだけど、自分の夢をいろいろ話していたら、それならホテルでやらなきゃダメだって言われて、19歳でホテルニューオータニに入ったわけです。

〈片岡〉 
まだ開業したばかりの頃でしょう。

〈落合〉 
オープンしたのが東京オリンピックがあった昭和39年で、僕が入社したのはその2年後でした。総料理長が有名な小林作太郎さんでね。

最初はもちろん皿洗いからだったけど、ラッキーなことに人手が足りなかったので、よそで少しやっていたのを見込まれて、半年で調理場に移動できたんです。

最初は分からないことばっかりでいろいろ大変だったけど、あまり辛かったという印象はないんだなぁ。若いからどんどん吸収していくし、いま振り返っても楽しい思い出ばかりですよ。

〈片岡〉 
そこを辛く感じるか、楽しく感じるかで将来が決まるんですよね。

〈落合〉 
僕はわりと機転の利くほうだったから、先輩に可愛がられていろいろ教えてもらえたのはよかったですね。やっぱり全体の流れだよね。その辺を常に意識しておくことが大事です。

ホテルは町の洋食屋さんと違って、勉強しないとついていけない世界ですからね。だからシェフが使っているのと同じ本を買ってきて、随分勉強しました。シェフは大体その本をもとにメニューをつくるから、勉強しておくとついていけるんですよ。もちろん最初はただ本のとおりにつくるだけだったけど、やっていくうちにだんだんその理屈が分かってくるんです。

励ましを本気で受け止めて

〈落合〉 
片岡さんも僕と同じように、思いがけないところから料理人を目指すようになったんですよね。

〈片岡〉 
そう、もともとは工業デザイナーになりたくて、高校でも美術部に所属してデザインの勉強をしていたんです。

僕の家は2歳の時に親父が亡くなって、おふくろが家政婦の仕事をやったり、いろんな内職をして僕たち4人の兄弟を女手一つで一所懸命育ててくれていたんですが、その家政婦をしていたのが外交官の金倉英一さんのお宅でしてね。僕も時々お邪魔して、絵の好きだった金倉さんの影響もあって絵描きに憧れた時期もあるんです。

でも、うちは貧乏で芸術をする余裕がなかったから、職業として成り立つ工業デザイナーになろうと考えて、東京藝術大学を目指していたわけです。ところが受験に2回失敗して、3回目の挑戦をする前に、ちょうどミラノへの赴任を控えていた金倉さんが「もしダメなら、コックになって私についておいで」って言ってくださったんです。

〈落合〉 
料理の天分を、見抜いておられたんでしょうかね。

〈片岡〉 
いや、本当はちょっと励ますつもりで言ってくださったのを、僕は本気で受け止めてしまったんです。結局3度目の受験もダメで、悩んだ挙げ句に「コックになりたいので、よろしくお願いします」って言いに行ったら、びっくりされていましたよ(笑)。

既にコックの手配は済んでいたんですが、それでも金倉さんは「自分が言い出したことだから」って、わざわざコックを交替して僕を総領事付料理人としてイタリアに連れて行くことにしてくださったんです。ちょうど20歳の時でした。

〈落合〉 
だけど金倉さんも、よく決断されましたよね。

〈片岡〉 
総領事館ですから、大使館と違って毎日のように宴会があるわけではないし、もともとご夫婦ともども料理にすごく造詣が深くて、結構ご自分たちでもつくられていたので、そんなにできたコックさんを連れて行かなくてもよかったんですよ。

そうは言っても、出発前の3か月間で急遽老舗の「つきぢ田村」で修業させていただいただけで、ほとんど何も分からない状態で向こうへ行ったわけですから、ああじゃない、こうじゃないって毎日のように怒られていました。でもお二人ともすごく可愛がってくださったから、怒られてあまり卑屈になることはなかったですね。

総領事館では、昼にイタリア料理、夜は日本料理をつくるんです。奥様と一緒にメニューを考えて、食材を仕入れに行って、中曽根元総理とか、いろんな方々が総領事館のお客としてお見えになるのをおもてなしして、経験を積ませていただきました。

お二人は言葉遣いから礼儀など、あらゆることを教えてくださったし、あそこの家に行ってこの料理を教わってきなさいとか、あのレストランでいい研修をやっているからとか、一人前になるための道をつくってくださいました。いまの自分があるのは、ミラノで5年間、金倉ご夫妻にいろんな機会を与えていただいたおかげだと思っています。

 (中略)

〈片岡〉 
僕は若い頃、工業デザイナーになろうと思ったでしょう。結局料理人になったけれども、ある時デザイナーの方から、パスタの開発をしませんかというお話をいただきましてね。その時に、あ、面白いなと思ったんです。ものをつくり上げていくという意味では、デザインも飲食も同じなんだと。

画家は絵の具を使って、音楽家は音譜を使って、そして僕たちは火や水を使って表現する。方法は違うけれども、一つのものを極めていくっていうことでは一緒だということに気づくんですよ。

だから、僕はデザイナーになれなかったことで失敗したとは全然思っていないし、料理人をやってきてよかったと思う。そういうことに気づかない人は不幸せだと思います。こんな因果な職業を選んでしまって、と思っちゃいけないんですよ。やっぱり、自分がやってきたことに誇りを持つことが大事ですよね。

(本記事は月刊『致知』2016年5月号 特集「視座を高める」の対談記事から一部抜粋・編集したものです)

◎【残り僅か!3/31まで】お申込みくださった方に『渋沢栄一 一日一言』プレゼント!新生活応援CP実施中。この春、新たなステージに挑戦するあなたの「人間力」を磨き高めるために、人間学を学ぶ月刊誌『致知』をぜひご活用ください。

たった3分で手続き完了、1年12冊の『致知』ご購読・詳細はこちら

 

◇落合務(おちあい・つとむ)
昭和22年東京都生まれ。フランス料理のシェフを夢見て、41年ホテルニューオータニ入社。同社を退職後、イタリアでの料理修業を経て、57年東京赤坂のイタリア料理店「グラナータ」料理長。その後独立し、平成9年東京銀座に「ラ・ベットラ」をオープン。日本一予約のとれないレストランとして知られるようになる。21年日本イタリア料理協会会長。 

◇片岡 護(かたおか・まもる)
昭和23年東京都生まれ。工業デザイナーを志すも藝大受験に失敗し、知人の外交官に伴われイタリアで5年間総領事付料理人を務める。その後日本とイタリアで料理修業を重ね、52年東京南麻布のイタリア料理店「マリーエ」料理長。6年間連日満席という偉業を成し遂げる。58年に独立し、「リストランテ・アルポルト」を西麻布にオープン。

人間力・仕事力を高める記事をメルマガで受け取る

その他のメルマガご案内はこちら

『致知』には毎号、あなたの人間力を高める記事が掲載されています。
まだお読みでない方は、こちらからお申し込みください。

※お気軽に1年購読 10,500円(1冊あたり875円/税・送料込み)
※おトクな3年購読 28,500円(1冊あたり792円/税・送料込み)

人間学の月刊誌 致知とは

閉じる