“世界のムナカタ”はどこまでも努力の人だった——石井頼子氏に聞く祖父・棟方志功のこと

極度の弱視や貧しさというハンディに負けず、独力で世界の頂点に立った板画家・棟方志功。心から芸術という仕事を愛した志功は、様々の挫折や逆境を経て、晩年には楽しみ、遊ぶが如き境涯に至っていたといいます。その一筋に足跡を積み重ねてきた生き方について、令孫であると同時に研究者として長年棟方志功の芸術と人生を研究してこられた石井頼子さんにお話しいただきました。

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板画の一つひとつは足跡に過ぎない

昭和17年、39歳。この年から棟方は自分の「版画」を「板画」と表記すると宣言しています。どのような心境の変化があったのか。その前年に掲載されたインタビュー記事で棟方はこう語っています。

「今までの版画家は、一枚の版画にばかり凝っていた。展覧会へ出品するための版画ばかりつくって、版画の生命を忘れていたと思うんです。版画はその複数たる本質を生かさなくちゃなりません。人から人の手へ移って、最後には(棟方の)名前がなくなる。擦り切れてしまって棟方がなくなるところに、はじめて棟方版画が生きたということになるんだと僕は信じているんですよ」

「棟方は個性的だとよくいわれますが、反対に僕は個性をなくしてしまおうと常に努力しているんですよ

「とにかく多くの絵描きは一作業毎に満足し、制作の歴史は満足の歴史なんだけれども、僕のは一つ一つが足跡に過ぎないんですよ。生きてゆくうえでの否応なしの足跡だと思うんです。丁度僕らが雪の上を歩くと足跡がつくように、僕の仕事もあれなんですよ。完成しない。ただ完成への無限の憧憬なんです。完成とは作品のなかの僕がなくなることなんです

他の版画家とは一線を画す想いもあったのでしょう。「板画というものは板の生まれた性質を大事に扱わなければならない」「板の命を彫り出すこと、板から生まれる板による画」という意味を棟方は「板画」の文字に込めました。

戦争をはさみ、棟方は真宗大国富山に疎開します。他力の世界を深く理解できるのではないかと考えた故なのですが、残念ながら納得には至りませんでした。

昭和30年代に入ると、念仏を唱えるように板画が自然に湧いてくる、そういう境地で作品が生まれるようになることを望みました。

ただ、一貫して棟方は努力の人でした。事前の勉強を怠らず、構成や構図を練りに練って何百回と下絵を重ね、手が勝手に動くまでに下準備を重ねた上で板に向かう。だからそこからは一気呵成、無心になって息つく間もなく描き上げ、彫り上げることができたのです。

平素「板画は他力の在り方から生まれるものである」と語った棟方ですが、その基盤となっているのはひたすら努力を重ねる自力の姿勢でした。

並ぶ順番が替わる「二菩薩釈迦十大弟子」

もう一つ、棟方は昭和18年頃から作品名に「柵」という文字を付けるようになります。連作の題名としての「いろは板画柵」、その中の一点一点を「いの柵」「ろの柵」と名付けるように、自在に使われます。私はこの一文字に彼の板画観のすべてが凝縮されているといっても過言ではないと思います。

棟方はこう説明しています。

「(柵は)四国の巡礼の方々が寺々を廻られるとき、首に下げる、寺々へ納める廻札、あの意味なのです。この札は、一ツ一ツ自分の願いと信念をその寺へ納めていくという意味で下げるものですが、わたくしの願所に一ツ一ツ願かけの印札を納めていくということ、それがこの柵の本心なのです」

お遍路さんがそれぞれのお寺に一枚一枚お札を納めるように、自らもまた一点一点の作品を生涯の道標として納めていく。何十点もの作品が連なって一作を成す「板画巻」という考えや、何十枚の板木を組み合わせて大きな画面を構成する在り方も、「柵」という考えに通じるものだと思います。

このように「柵」とは、自らの芸術を「一つの足跡」「完成への無限の憧憬」と表現し、無限な美を求めて前進を続ける棟方の生き方そのものを象徴する言葉とも言えましょう。

棟方志功に何を学ぶか

棟方は「花深所無行跡」という言葉を好んで使いました。中国画の画讃にあったと言いますが、出典は定かではありません。「板画は一つ一つが足跡に過ぎない」と考えていた棟方がこの画讃に出合い、我が意を得たり! と〝歓喜雀躍〟する様子が目に浮かびます。足跡の上に美しい花びらが舞い落ちそれを覆い消す。足跡が消えた頃には、自分はずっとその先を歩いている。その足跡もやがて花びらに消されていく……。常に完成を見ない、歩みを進め続ける在り方を棟方は具現化した人でした。

棟方は心から仕事を愛し、「楽しむ」「遊ぶ」といったところにまで至っていたと私は思います。

考えてみれば、故郷の自然に学んだ美を表現することに専念し、絵が好きというただその一念で一生を終えた人。地べたにしゃがみ込んで無我夢中になって絵を描いていた少年がそのまま大きくなった人。それが棟方志功という人間だったのかもしれません。

私はいまも青森に残る「絵馬鹿、絵キチ」という言葉を複雑な思いで受けとめていました。しかし現在、この言葉は勲章だと思うようになりました。そこまで夢中になって青森の自然を描き続けたことが、一生の宝となった訳ですから。

棟方はテレビを見るのにも双眼鏡が必要なくらい目が不自由でした。貧しい家に生まれ、学歴もありません。普通ならばハンディキャップと考え、そこで諦めても仕方がないところですが、棟方は自らの一念を決して曲げることがありませんでした。そしてついに世界の頂点を極めたのです。

私はハンディを理由に、自信をなくし夢を諦めがちな昨今の子供たちに、棟方の生き方を知り、そこから何かを掴み取っていただきたいと願ってやみません。「好き」という想いだけで、ハンディをものともせず、一生の仕事を貫いた人。そのための努力は喜びである、と。「絵馬鹿、絵キチ」と呼ばれた棟方志功の生き方とその作品について語り伝えることが、私の使命であると感じています。


(本記事は月刊『致知』2013年5月号 特集「知好楽」より一部を抜粋したものです)

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◇棟方志功(むなかた・しこう)  
明治36年青森県生まれ。小学校卒業後、家業の鍛冶職を手伝い、裁判所の給仕となる。画家を志し、大正13年上京。昭和3年から木版画を手がけ、国画会展などに出品のほか、帝展に油絵を出品。11年柳宗悦らの知遇を得、民藝思想から強い影響を受ける。31年ベネチア・ビエンナーレ展で国際版画大賞を受け、世界的な評価を確立。国内外で数多くの展覧会を開催する。45年には毎日芸術大賞と文化勲章を受けた。50年没。代表作に『大和し美し』『二菩薩釈迦十大弟子』など。『板極道』他著書多数。

◇石井頼子(いしい・よりこ) 
昭和31年東京都生まれ。母は棟方志功の長女けよう。54年慶應義塾大学文学部卒業。平成23年の閉館まで学芸員として棟方板画美術館に勤務。講演会、執筆活動、展覧会監修、書簡整理などに携わる。18年の日本民藝館設立70周年記念「棟方志功展」など多くの展示会を監修。共編に『棟方志功の絵手紙』(二玄社)。

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