PR業界売り上げ1位となったサニーサイドアップ・高橋 恵さんが大切にしてきたこと

企業の商品の広報や、元サッカー日本代表の中田英寿選手、陸上の為末 大選手などのスポーツマネジメントを手掛け、2012年には電通PRを抜き業界売り上げ一位になるまで急成長したPR会社・サニーサイドアップ。その創業者である高橋 恵さんは、自らの半生を「無我夢中でおせっかいをばら撒いてきた」と表現します。70代に入って「おせっかい協会」を立ち上げ、コロナ禍の現在も無類の〝おせっかい〟で周囲の人々を明るく照らし続ける高橋さんの原点を振り返っていただきました。

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営業はちょっとの「おせっかい」で変わる

〈高橋〉
サニーサイドアップのスタートは1985年、私と現社長である私の娘のたった2人、東京・中野のワンルームマンションの一室からでした。しかも、当時の私はお金も、学歴も、資格もない、バツイチでふたりの子持ちの主婦。まさにないもの尽くしの創業でしたが、私には「なんとかなる」という漠然とした自信がありました。

というのも、何の取り柄もなかった私が、短大卒業後に就職した広告代理店を皮切りに、あらゆる営業分野の行く先々で上位の営業成績を収めてきたからです。

「なぜそんなに売れるの?」

多くの方にそう尋ねられます。しかし、私には何か特別なことをしてきた覚えはないのです。

ただ、言えるとするならば、営業をネガティブに捉えずに、一般家庭への飛び込みであれば、「主婦のお手本探し」、一日に何十社も飛び込む際には「トランプと同じで必ず4枚のエースはあるはずだ」と心の持ち方を変えてきたこと。

あとはただただ、「一人でも多くの人を喜ばせてあげたい」との思いでちょっと一言、〝おせっかい〟をしてきたということぐらいでしょうか。

例えば、創業期には営業に赴いても「何の実績もない会社とは契約できない」と冷たくあしらわれ、なかなか仕事が取れない日々が続きました。

その日も「うちは電通PRに任せているから必要ない」と営業先の社長にあっさり断られた帰り際のこと。社長が誤って手を切ったのが目に入ったのです。

気になった私は薬局に直行、包帯など一式を社長に届けてあげました。何の見返りも期待せず。しかし、その数か月後、あの時のお礼がしたいと電話があり、思いがけずテレビコマーシャルの仕事をいただいたのです。

私の〝おせっかい〟の原点

同じような事例は枚挙に暇がありませんが、そんな私のおせっかいの原点には、子供時代の辛い経験がありました。

「何で戦死してしまったの。手がなくても足がなくても、生きて帰ってきてほしかった!」

そう泣き叫ぶ母のそばで、10歳の私は、姉と妹とともに、一緒に泣いていました。

良家に生まれた母でしたが、幼くして両親を、大東亜戦争で夫を亡くしました。戦後始めた事業もほどなく倒産。手のひらを返したような世間の冷たさに晒され、押しかける債権者に家財道具一切を持ち去られました。母の指から父の形見の真珠の指輪を強引にもぎ取る姿がいまも目に焼き付いています。

母はこの時、一家心中の瀬戸際にまで追い込まれていたのでしょう。しかし、それを子供心に感じた時、ガタッという物音が玄関から聞こえたかと思うと、ガラス戸に一枚の紙切れが挟まっていました。そこにはこう書かれていたのです。

「あなたには三つの太陽(子供)があるじゃありませんか。今は雲の中に隠れていても、必ず光り輝く時がくるでしょう。それまでどうかくじけないでがんばって生きて下さい」

その手紙を読み聞かせながら、母は、はっと気がついて、ごめんね、ごめんねと謝って抱きしめてくれたのです。

おそらく私たちの窮状を見かねた近所の方だったのでしょう。人間のちょっとした優しさに、人の命を救うほどの力がある。この時の強烈な印象、そして一家を養うために身を粉にして働く母の姿が、私のおせっかいの原点となったのです。

若き日の苦難の中で支えになったもの

しかし、苦しい生活は終わることなく、このままでは学校に通わせることもできないと、母は私を知人の家に預けることを決断。そして送り出された私を待ち受けていたのが壮絶な〝いじめ〟でした。

空腹を我慢し、冬は霜焼けで10本の指がただれていても雑巾がけ。手をついて謝っても、これでもかと足で頭を踏みつけられる……。

あまりの仕打ちにトイレで泣き明かすこともしばしばでした。その小窓から見えた空と、その中を自由に飛び交う鳥たちの姿、そして母に会いたいという哀しい思いは、いまでも忘れることができません。

「自由に大空を飛ぶ鳥のように世の中を自由に、自らの力で生きていこう、そして、人間として、わけ隔てない生き方をしよう」

と14歳の時に誓ったのでした。

いま思い返すと、その後社会に出てからの私は、子供時代の辛い体験と、母や見知らぬ人から受けた温かい愛情に突き動かされるように幸せを追い求め、無我夢中でおせっかいをばら撒いてきたような気がします。

「天知る、地知る、我知る。どんなに貧しくなろうとも、心まで貧しくなってはいけません」

「あなたには、あなたのいっぱい、いいところがあるじゃない」

苦しい生活の中で母が繰り返し唱えていた言葉です。母はそのとおり、本当に思いやりに溢れた人でした。無縁社会という言葉も聞かれますが、どんなに忙しくとも、人を想う心さえあれば、たった一言の言葉、たった一枚の紙切れでも、人を救うことができるのです。

その人間の思いやりの大切さを、もっと多くの人に知ってほしいと願って、昨年おせっかい協会を設立しました。人はみな人を支えて人を生きる。私は命ある限り、おせっかいを続けていきます。


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対談のテーマは「誰かの幸せのために生きる喜び」
「のらねこ学かん」代表・塩見志満子さんと、ご自身の人生を深く語り合っていただいた記事は▼こちら▼


(本記事は月刊『致知』2014年6月号 連載「致知随想」より一部を抜粋・編集したものです)

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◇高橋 恵(たかはし・めぐみ)
1942年生まれ。一般社団法人おせっかい協会会長。3歳のときに父が戦死し、26歳でシングルマザーとなった母のもと、3人姉妹の次女として育つ。短大卒業後は広告代理店に勤務。同社を結婚退職後、2人の娘の子育てをしながら様々な商品の営業に従事し、トップセールスを記録。42歳で当時高校生だった長女と共に自宅のワンルームマンションで株式会社サニーサイドアップを創業。その後、長女に託した同社はジャスダック、東証二部を経て2018年に東証一部に上場する。60代は忙しく働く長女に代わって孫育てに精を出し、70代となった2013年には一般社団法人おせっかい協会を設立。全国各地の学校、商工会議所、企業などで講演活動を行う。

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