無我夢中の努力が道をひらいてくれた。高野登(ザ・リッツ・カールトン・ホテル元日本支社長)

「ザ・リッツ・カールトン・ホテル」を日本に根づかせた伝説のホテルマン・高野 登さん。内気な性格だったという幼少期から、ホテルマンへの憧れを抱いて渡米し、リッツ・カールトンでお客様の感動を超えた超一流のサービスを提供するホスピタリティの第一人者となるまでには、「無我夢中」の20代があったといいます。本記事では、アメリカの「プラザホテル」との出会いを振り返りつつ、夢を掴むための生き方について語っていただきました。

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本気の努力には天が味方する

アメリカに渡った2年目の夏のことです。たまたま上役たちの予定が合わず、私が各ホテルの総支配人が集う会議に出席することになりました。会場は、1985年にプラザ合意が結ばれたことでも有名な、アメリカを代表する「プラザホテル」です。当時22歳の若造にとって、そこでの経験は一生忘れることができません。

その会の内容よりも、プラザホテルに従事するウエイターやウエイトレスたちの立ち居振る舞いが、まるでブロードウェイの役者のようで、どこを取っても素晴らしかったのです。一度オーダーを聞いたらそれを覚え、我われの会話を中断させることなく、料理を運んでくれる。こちらの様子を常に窺い、絶妙なタイミングで料理の説明をしたり飲み物のお代わりを持ってきてくれるなど、そのホスピタリティは感動の連続でした。

これを私は「気配を消しながらも、存在感があるサービス」と表現しています。決してお客の邪魔にならないけれど、必要とする時にそこにあるサービス。これが私のホテルマン人生を貫くモットーとなったことは間違いありません。その日以来、私の目標は「絶対にプラザホテルで働く」ことになりました。

プラザホテルで仕事をするために、いまの自分は何が不足していて、どのくらいの期間があれば補えるのか。考えてみたところ、語学や教養など勉強することは山積みで、2~3年では役に立てず、5年でも力が及ばないだろう。であれば、8年後の30歳の時までにプラザホテルの従業員として相応しいスキルを身につけよう。そう目標を定めたのです。

その間、様々な一流ホテルで働きましたが、グリーンカード(米国永住権)が取得しやすいという情報を聞きつけ、ペンシルベニア州で1年間働いた時期があります。

通常取得には早くて3年、長ければ5年かかると言われていたところ、オーナーが尽力してくれたおかげで7か月で取得することができました。そのお礼もかねて、1年の契約期間の残り5か月、無給で働きました。オーナーにはそのことを伝えていなかったものの、ホテルを去る際には、餞別として現金を手渡してくれたのみならず、ニューヨークのヒルトンホテルの総支配人に紹介状を書いてくださったのです。

見返りを求めずにとった行動でしたが、その姿勢は天が必ず見てくれていると学んだ一件でした。この紹介状のおかげでヒルトンホテルでの職に難なく就くことができたのは言うまでもありません。 

他にもこんな出来事があります。仕事の傍ら時間を見つけては図書館に通い、プラザホテルに関する書籍や記事をひたすら読み込み勉強をしていました。コピーを取るとお金がかかるため、必要な箇所はすべて書き写しです。するとある時、ライブラリアン(司書)の女性が、

「私が“ミス”をして余分なコピーを取ってしまったのだけど、よかったらもらってくれない?」

と、私がまだ読んでいない本のプラザホテルに関するページのコピーをくれたのです。

それ以降、何度か“間違って”私が欲しい記事をコピーしてくれるようになりました。ここでも努力は誰かが必ず見ていてくれることを教えられました。

憧れのプラザホテルへ

プラザホテルへの道が開かれたのは全くの偶然です。囲碁が好きだったので、ニューヨークにある囲碁クラブによく足を運んでいましたが、遊ぶ場のため、会員とは名刺交換など一切していません。通い始めて2年程経った頃、あるおじさんから、「君はホテルマンだっけ? 知り合いが日本人を雇いたいと言っているんだ」と声を掛けられました。

それから名刺交換をしましたが、その時初めてその方が日本航空米州地区総支配人だと知りました。加えて、知人というのが長年憧れを抱いていたプラザホテルの総支配人だったのです。驚きを隠せぬまま二つ返事で面接に伺いました。

面接では、プラザホテルに初めて行った際に衝撃を受けたエピソードや、いつか働くことを夢見て勉強を重ねてきたことを滔々と伝えました。私が学んできたことはPR部長さえも知らないマニアックな情報も入っていたようで、大変驚かれながらも、晴れて1982年、28歳の時にプラザホテルで働けることになったのでした。

駆け足に私の20代の歩みを追ってきましたが、何か1つでも「これが自分の売りだ」というものを身につけることが、時間に余裕のある20代には大切だと思います。

私はプラザホテルへの情熱を絶やさず勉強を重ねていたことで、突然訪れたチャンスを掴むことができました。勉強に熱中しすぎて、気がついたら空が明るくなってきていた経験が何度もあります。こうして徹夜ができるのも体力のある20代のうちだけです。

また、プラザホテルの「気配を消しながらも、存在感があるサービス」を常に意識し、一度聞いたオーダーは必ずすべて覚えるよう心掛けていました。「〇〇をご注文の方」とわざわざお客様同士の会話を遮らずに、スッとお出しするのです。

60代のいま、すべての料理を瞬時に暗記するのは難しいかもしれませんが、20代であれば、10人、20人のオーダーは努力次第で確実に覚えられます。その努力如何がプロになれるかどうかの分かれ目だと感じます。

無我夢中で駆け抜けた20代

私の20代をひと言で表すと「無我夢中」の一語に尽きます。一流のホテルマンになりたいという夢に燃え、我を忘れて仕事に没頭してきました。初めから無我夢中で打ち込めるほど好きな仕事に出逢える人は多くない中で、本当に幸せなことだったと思います

目の前に与えられた仕事・課題を無我夢中で取り組んでいるうちに、次第にその仕事が自分の一部になり、天職になっていくものです。天職に出逢えていない人は皆、無我夢中でやり切る前に、「自分には合ってない」と自己判断し、辞めていってしまうのではないでしょうか。

私はこれまで何度も失敗や悔しい思いを経験してきました。しかし同時に、他人に認められるのは完璧にこなせる人ではなく、本気で打ち込んでいる人であると感じるようになりました。本気になって全力で打ち込んでいると、天が味方をしてくれる。これは20代で得た最も大きな気づきです。

(本記事は『致知』2020年5月号 連載「20代をどう生きるか」より一部を抜粋・編集したものです。)

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◇高野 登(たかの・のぼる)
昭和28年長野県生まれ。プリンス・ホテルスクール(現・日本ホテルスクール)第一期卒業後、21歳でニューヨークに渡り、ホテルキタノ、ヒルトン、プラザホテル、フェアモントホテル等での勤務を経て、平成2年サンフランシスコのリッツ・カールトンの開業に携わる。6年にリッツ・カールトンの日本支社長として帰国。9年に大阪、19年に東京の開業をサポート。21年退社。22年人とホスピタリティ研究所設立。著書に『サービスを超える瞬間』(かんき出版)など多数。

 

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