横須賀造船所の建設や仏式軍隊を導入——幕末期に活躍した幕臣・小栗上野介の生涯

激動の幕末期、日本の近代化の道を切り開いた立役者の一人が幕臣・小栗上野介(おぐり・こうずけのすけ)です。日米修好通商条約の批准書交換のために派米使節の目付(監察官)として活躍、帰国後は幕府の要職に就き、横須賀造船所の建設やフランス式軍隊の導入などに尽力します。しかし、その実力を恐れた明治新政府軍によって斬首され、日本の開明を見ることなくこの世を去ります。小栗上野介研究の第一人者、東善寺(高崎市)の村上泰賢住職に、その功績を解き明かしてもらいました。

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米国の造船所に刺激を受ける

小栗上野介が歴史の表舞台に立ったのは、時の大老井伊直弼によって遣米使節団の目付に抜擢されたことに始まる。遣米使節団とは日米間で調印された修好通商条約の批准書を取り交わすために編制されたものだ。

安政7(1860)年1月18日、新見豊前守正興を正使とした遣米使節団が米国軍艦ポウハタン号に乗り込むと、一行は一路サンフランシスコへと旅立つ。その後、パナマを経てワシントンでブキャナン大統領と批准書を交わすと、ニューヨークからナイアガラ号に乗って大西洋、インド洋を航海し、日本に戻ってきている。小栗上野介は初めて世界一周をした日本人の一人であったのだ。

遣米使節団一行にとってワシントンで見るもの触れるもの、すべてが驚きの連続だったことだろう。殊に衝撃を受けたのが海軍造船所の見学であった。

最初に一行が通された10棟あまりが並んだれんが造りの大きな鉄工場では、反射炉で溶かした鉄をもとにして、野戦用の大砲をはじめ蒸気エンジン、鉄のハンドル、ボルト、ナットから鍋、釜、部屋のドアノブまで、造船に必要なあらゆる鉄製品が造られていた。

一行が見せつけられた海軍造船所とは、単なる組み立て工場ではなく、造船に必要なあらゆる工業製品を生み出す総合工場だった。しかも、その原動力は蒸気機関であった。蒸気船の動力が蒸気機関であることしか知らなかった一行にとって、造船所の原動力にも蒸気機関が使われていたことは、おそらく大変な驚きだったはずだ。

日本を木の国から鉄の国へ――。造船所建設はまさにその第一歩であり、それが日本を国際レースのスタートラインに立たせることになる。この思いこそ、後に小栗上野介が造船所建設を声高に主張していくベースとなった。

軍の近代化や貿易会社を提唱

足かけ9か月に及ぶ旅を終えて帰ってきた遣米使節団一行であったが、その間国内の情勢は一変していた。そのため、出航時の歓送ムードとは打って変わって正式な歓迎といったものは何もなく、むしろ厄介者が帰ってきたという雰囲気さえ漂っていた。

なぜなら、使節団を送り出した井伊大老が「桜田門外の変」で暗殺されたのを契機に、江戸も京都も外国人排斥を謳う攘夷論が一気に吹き荒れ、攘夷を唱えない者は武士の風上にもおけないという空気一色になっていたからだ。そのため一行が海外の見聞や知識を語ろうにも、それすら許されないという風潮が強く、いつしか誰もが口をつぐむようになっていた。

その中にあって、ただ一人、小栗上野介だけは誰に憚ることなく、外国文化の長所をどんどん取り入れなければ日本の将来は危ういと、幕僚たちに訴え続けた。特に造船所建設に関しては反対論も根強くあったが、外国から買った軍艦を自国で修理する必要性を強く感じていたこともあって、一歩も引きさがることなく早期の着工を主張した。

その甲斐あって横須賀に造船所建設が認められたのは、帰国から4年目のことであった。着工は翌年の慶応元(1865)年。フランスに技術指導を仰ぎ、当初は4年計画でのスタートだった。

小栗上野介の考え出した近代化政策はとどまるところがない。例えば、兵庫港の開港にあたって大阪商人20名ほどに出資をさせて、兵庫商社という貿易会社を提案。その一方で、歩兵、騎兵、砲兵の三兵の洋式編制とフランス人教官による伝習を進めるなど幕府軍の近代化も推し進めていった。

遺族を前に東郷平八郎が謝辞

幕府の近代化政策を次々と提言し、周囲を説得して実現に持ち込んだのは、小栗上野介を中心とした幕僚たちだった。しかし、小栗上野介にも時代の流れを変えることはできなかった。迫りくる明治新政府軍を前に小栗上野介が辿った末路は実に悲惨なものであった。

江戸無血開城前に罷免された小栗上野介は江戸を引き払うと、知行地の上州権田村(現・高崎市倉渕町)への移住を決めた。しかし、その僅か2か月後には、明治新政府軍の手によって、何の罪もないままに家臣とともに小栗上野介は斬首されてしまう。日本の近代化に努めた人物のあまりにあっけない最後だった。

時は下る。日露戦争で日本がロシアに辛勝した後のことである。連合艦隊司令長官として日本海海戦を指揮した東郷平八郎は、小栗家の遺族を自宅に招くと、次のように感謝の気持ちを述べたという。

「日本海海戦において完全な勝利を収めることができたのは、軍事上の勝因の第一に、小栗上野介殿が横須賀造船所を建設しておいてくれたことが、どれほど役立ったか計り知れません」

というのも、海戦中に戦果を挙げた中小の駆逐艦や砲艦、魚雷艇などの多くは横須賀や呉の造船所でつくられたものであり、また、艦船の修理点検を国内の造船所で迅速に行えたことも、大きく勝利に貢献したからにほかならない。

明治維新前夜においても日本は近代国家への道を着実に歩み始めていた。その立役者の一人が小栗上野介であったことを、我われ日本人は忘れてはならないであろう。

(本記事は『致知』2017年8月号 の特集「維新する」より一部抜粋したものです。あなたの人生や経営、仕事の糧になる教え、ヒントが見つかる月刊『致知』の詳細・購読はこちら

◇小栗上野介(おぐり・こうずけのすけ)
文政10(1827)年~慶応4(1868)年。徳川家の旗本小栗家に生まれる。32歳で日米修好通商条約批准の遣米使節として渡米、世界一周後に帰国。8年にわたって幕政を支え、その間に外国、勘定、江戸町、歩兵、陸軍、軍艦、海軍各奉行を歴任。慶応4年閏4月6日、明治新政府軍の手で斬首される。享年41。

◇村上泰賢(むらかみ・たいけん)
昭和16(1941)年群馬県生まれ。駒澤大学文学部卒業。東善寺(高崎市)住職。小栗上野介顕彰会理事。編著に『小栗上野介のすべて』(新人物往来社)、著書に『小栗上野介』(平凡社新書)がある。

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