高度経済成長の扉を開いた実力者——川崎製鉄の初代社長・西山弥太郎

戦後、産業の基礎となる鉄の大量生産方式を日本で初めて導入し、高度経済成長の扉を開いた人物がいます。川崎製鉄(現・JFEスチール)の初代社長・西山弥太郎。その功績は、松下幸之助、盛田昭夫、本田宗一郎ら戦後の傑出した経営者たちに匹敵すると評価されています。作家の黒木亮氏にその実力と人となりを解説してもらいました。

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八方塞がりの状況を打破

日本がいまだ米国の占領下にあった昭和25(1950)年11月、西山は千葉市に臨海型銑鋼一貫製鉄所建設の計画を発表した。同年8月には川崎製鉄は川崎重工から分離独立を果たしており、西山が初代社長に就任した直後のことだった。

しかし、資本金5億円の会社が163億円をかけて最新鋭の製鉄所をつくるという計画に対して、鉄鋼業界や政府から「西山の妄想」「狂気の沙汰」など厳しい批判が噴出。日本銀行総裁の一万田尚登が資金面での懸念を示し、メインバンクの第一銀行常務の西園寺実は、「あなたの計画は夢だ。銀行は夢に金を貸すわけにはいかない」と話したと言う。

それでも西山は毫(ごう)も怯むことなく、「だれが反対しようと、やると決めたらやるんだ。わたしに金を貸さん人がいても、協力せん人がおっても、日本一立派な従業員を持っているのだから、絶対にやれるよ」と建設に着手した。

この八方塞がりとも思えるギリギリの状況から、西山は国内のみならず世界銀行からの融資を取り付けることに成功しているが、そこに至るまでには川崎製鉄に対して支援を表明した人物たちの存在が欠かせない。

例えば、第一銀行の酒井杏之助頭取は「すでに矢は弦を離れた。当行としては、川崎製鉄を見殺しにすることはできない」と腹をくくり、鉄鋼連盟会長の三鬼隆も「今後川崎製鉄が苦しむ事態が起きるかもしれないが、業界として見捨てることはしない」と公の場で発言している。

状況を好転させた三つの要素

当時、誰もが構想だけで終わるであろうと考えられていた計画を実現できたのは、西山に三つの要素が備わっていたからではないかと私は考える。

一つ目に西山は人を説得するのがうまかったことが挙げられる。西山は相手を説得する際、物分かりのよい人には手短に、物分かりの悪い人には何遍でも分かりやすく説明するなど、相手によって話し方を変えるなど工夫していたという。

二つ目には当時西山が「鉄鋼業界の第一人者」との評判を得ていたことから、その理論の正しさがものをいったと思われる。

そして三つ目は西山の謙虚で仕事一筋の人柄だろう。それはほとんどの勲章を辞退したり、自分のことを書き残さなかったことにも表れているが、それだけではない。

西山は現場の人間をとても大事にした。西山自身が若い頃から現場を這いずり回るようにして仕事をしてきただけに、現場の人間の苦労が手に取るように分かるからなのだろう。工員たちに挨拶されると、それがどんなに目下の者であっても必ず帽子を取って頭を下げると、「いやご苦労さん。しっかり頼みますよ」とにこやかに挨拶していた。

川崎製鉄の元工員や社員への取材をとおして私が感じたのは、西山のことを話すことが本当に幸せそうだったということだ。加えて西山と一緒に仕事をしたことを誇りに思っている人がとても多かった。

西山は人間としての器が大きかっただけでなく、誰にでも優しく、周囲の人たちに愛情をもって接することができる人だったのだろう。

すべてはよい鉄をつくるために

昭和33(1958)年に千葉市の臨海型銑鋼一貫製鉄所が完成すると、西山はすぐに次なる計画に向けて動き出した。それは当時世界最大級の製鉄所となるもので、昭和36(1961)年には岡山県倉敷市の一角に建設場所が決まる。いまの川崎製鉄水島製鉄所だ。

西山は常によい鉄をつくりたいという気持ちが強かった。それは松下幸之助が西山弥太郎に対する追悼文の中で、西山が自社の製品を嬉しそうに語っていたことを印象深げに記していることからも窺える。

よい鉄をつくるためには、会社の規模を大きくしてより性能の高い溶鉱炉や圧延工場を持つ必要がある。千葉市の臨海型銑鋼一貫製鉄所や水島製鉄所はそのためのものであり、西山のすべての行動は良質な鉄をつくるという一点に収斂されていた。一つの方向、目的に向かってすべてのエネルギーを収斂させることができたのが、西山だったということもできるだろう。

そして、そのために、川崎製鉄という会社をとても大事にした。晩年、西山は家に帰ると「疲れた」「しんどい」と妻のミツに洩らすようになったという。「それなら休まれたらどうですか」と言うミツに、「いや、会社から給料をいただいている間は、そんな身勝手なことはできないよ」と答えている。

自分は会社に使われている身であるという意識を強く持っていた西山。川崎製鉄は昔から公私の区別がとても厳しかったのは、私心のない西山の存在に拠るところが大きかったように思う。

(本記事は月刊『致知』2015年4月号の特集「一を抱く」の記事を一部抜粋・編集したものです。あなたの人生、経営・仕事の糧になるヒントが見つかる月刊『致知』の詳細・購読はこちら

◇西山弥太郎(にしやま・やたろう)
明治26年神奈川県生まれ。大正8年東京帝国大学工学部冶金科卒業後、川崎造船所(現・川崎重工)入社。製鈑工場製鋼課課長、川崎重工取締役などを経て、昭和25年川崎造船所から分離独立した川崎製鉄(現・JFEスチール)初代社長に就任。40年会長を兼任。41年逝去、享年74。

◇黒木亮(くろき・りょう)
昭和32年北海道生まれ。早稲田大学法学部卒業後、カイロ・アメリカン大学大学院で修士号を取得。都市銀行、証券会社、総合商社に23年余勤務の後、平成13年『トップ・レフト』で作家デビュー。著書に西山弥太郎の生涯を描いた『鉄のあけぼの(上下巻)』(日経文芸文庫)など多数。

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