2019年10月31日
亡くなる直前まで制作意欲に燃え続け、107歳の長い生涯をそれでもまだ不足とばかり制作に対する情熱を燃やし続けた木彫師・平櫛田中。その生涯と彫刻に賭ける生きた情熱はどこから生まれてくるのか――。40年にも及ぶ歳月をともに暮らした田中翁の孫・平櫛弘子さんに語っていただきました。
70、80はなたれ小僧
祖父・平櫛田中が逝ったのは昭和54年、107歳のときでした。
あと30年は制作し続けても余りある材を残し、最期まで武原はんさんと横山大観先生の木彫だけは作っておかなくてはいかんといい続けて死んだ祖父にとっては、107歳まで生きたといっても、その死はさぞ心残りだったことでしょう。
事実、100歳を越えても祖父の制作に傾ける情熱は衰えませんでした。98歳で小平市に家を新築したときも、アトリエがないのは寂しいといって、お花茶屋にアトリエがあるにもかかわらず、あとから家にアトリエを建て増したほどです。そしてこのアトリエで、『伊勢の赤福』など多くの作品を制作しました。また、亡くなる直前の床の中でも、裏にある木の径を測ってきてくれ、などといったものです。きっと頭の中で次の制作の構想を練っていたのでしょう。
――70、80はなたれ小僧、男の仕事は100から100から――
といった”田中節”そのままに生きた祖父の情熱はどこから生まれたのでしょうか。40年にも及ぶ歳月を祖父とともに暮らした孫の私にも、これということはわかりませんが、祖父が情熱の火を燃やして生き続けてきた姿を、思い出話を交えて紹介していこうと思います。
死ぬまで燃えた制作意欲
祖父の晩年まで衰えなかった体力を支えたのはもちろん、死ぬまで燃え続けた情熱だったのでしょう。祖父は『田中節』といわれる様々な言葉を残しています。
「桃栗三年 柿は八年
梅はすいすいで 十三年
わしは九十九年 枯木の枝に
花はちらほら まだ実は見えぬ
あらし ふくなよ二十年 さきに
きっと実が成る この眼で見たい
きっと実が成る この眼で見たい
――100歳では不足です。(中略)現在伊勢の赤福のお婆さんをつくっています。次に浅草の観音さんの竜神さん、次に鶴匠、能を舞う老女、それがかたづいたら京の舞妓をはじめべっぴんさんばかりをこさえます―九十九翁平櫛倬太郎」
こういった言葉を、100歳の老人とは思えないような力強い字で書くのです。祖父の書がようやく枯れてきたなと思ったのは104、5歳になってからのことでした。
また祖父は死ぬ直前まで、朝晩、自分の作った小さな仏さまに参っていましたが、私があるとき「何をお願いしたんですか」と尋ねたことがあります。すると祖父は
「いつもお願いすることは同じだ。まだ作っていない作品が12位あるから、それができますようにとお願いしていたんだ」
と答えたものです。
その12の作っていない作品には、冒頭で述べたおはんさんや横山先生の彫刻も入っていました。そうした作品を120歳までも生きて作ろうと思っていたのでしょう。しかし、それもかなわず、107歳で人生の幕を閉じたのですが、祖父はその107年間の長い人生を、それでもまだ不足とばかりに最期まで燃え続けて生きた人でした。
「いまやらねばいつできる。わしがやらねばだれがやる」
この言葉を祖父は晩年、100歳になっても好んで書いていましたが、この言葉こそ、祖父の生き様を象徴したものだったのだと思います。