2019年10月08日
(写真=国立国会図書館「近代日本人の肖像」)
「大政奉還」や鳥羽・伏見の戦いでの「一意恭順」など、機に応じた歴史的決断を行い、明治維新への道を開いた最後の将軍・徳川慶喜(とくがわ・よしのぶ)。しかし、その歴史的評価はいまだはっきりと定まっていません。徳川慶喜の決断に込められた「真意」を、水戸史学会会長の宮田正彦さんに紐解いていただきました。
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慶喜公のリーダーシップ
〈宮田〉
混迷を深める幕末の政治状況の中で、慶喜公は文久2(1862)年に将軍後見職に就くなど、政治の中枢で重要な役割を果たすようになりますが、ここでは将軍就任後の慶喜公に焦点を当てて見ていくことにしましょう。
過激な攘夷運動を繰り返す長州藩と対立を深めた幕府は、文久4年の「長州征伐」に続き、慶応2(1866)年6月「第二次長州征伐」を開始します。ところが長州藩の優位に戦争が進む中、同7月に大坂城在陣中の将軍家茂が病没してしまうのです。そこで新将軍に選ばれたのが慶喜公でした。
結局、第二次長州征伐は8月1日に小倉城が落城したことで幕府の敗北に終わりますが、慶喜公は何とか幕威を回復し、日本の統一を維持しようと、ものすごい勢いで幕政改革を断行していきます。
その1つが兵制改革です。慶喜公はフランスの支援を受け、伝統ある旗本軍団を銃隊中心の編成に替え、指揮系統も明確にするなどし、早くも慶応3年末に1万人規模の近代的陸軍への改編を実現しています。
さらに、組織運営を強化するため、陸軍・海軍・外国事務・全国部内(内務)・会計・曲直裁断(司法)の六局制とし、それぞれの頂点に老中を置く幕府機構の抜本的な改革も行いました。これは現在の内閣制のような体制であり、非常に先進的な取り組みでした。
この慶喜公の行動を見た倒幕派の面々は驚愕動揺し、岩倉具視は「今の将軍の動作を見るに、果断・勇決、志小ならず。軽視すべからざる勁敵なり」、坂本龍馬は「将軍家は余程の奮発にて、平生に異なれること多く、決して油断ならず」、木戸孝允は「今や関東の政令一新し、兵馬の制また頗る見るべきものあり。一橋の胆略決して侮るべからず。もし今にして朝権挽回の機を失ひ、幕府に先を制せらることあらば、実に家康の再来を見るが如けん」と述べています。
彼らの反応からも、まさに慶喜公が先見の明を持ち、果断に道を切り拓いていく稀有なリーダーであったことが伝わってきます。
大政奉還はいかに実現したか
ところが、改革を断行したものの、資金不足や人材不足で幕府は次第に行き詰まっていきます。特に人材不足は深刻で、新しい政治機構をつくっても組織の意味を理解し、担当できる優れた人材が上層部にいませんでした。いくら有能な若手がいても組織をうまく回していくことができなかった。
そのような状況の中で、慶応3年10月6日に、土佐藩の山内容堂が幕府の政権を朝廷にお返しする大政奉還を慶喜公に建白してきます。そして、慶喜公は数日のうちに大政奉還を決断します。
大政奉還は慶喜公の独自の発想であり、独断だと思っている人もいるかもしれませんが、そうではありません。幕府が天下の政治を専断している根拠は朝廷に権限を委任されているからだ、という認識はむしろ当時の常識でした。
後年の回想によれば、慶喜公は将軍職に就いた時点で、既に幕府だけでは国家の難局は乗り切れないと見通し、いつかは大政奉還しなければならない、と考えていました。問題はいつどのようなタイミングで行うかだったのです。
この慶喜公の大政奉還の決断に対して、「政権を投げ出した」「自分が権力を握るための政略だ」などという見方が多くありますが、それは違うと私は考えています。
なぜなら、この時、慶喜公は政治の実権から離れようとはしていないからです。『大政奉還の上表』の中にも、
「……当今、外国ノ交際日ニ盛ナルニヨリ、愈(いよいよ)、朝権一途に出申サズ候テハ、綱紀立チ難ク候間、従来ノ旧習ヲ改メ、政権ヲ朝廷ニ帰シ奉リ、広ク天下ノ公議ヲ盡(つく)シ、聖断ヲ仰ギ、同心協力、共ニ皇国ヲ保護仕リ候得ハ、必ズ海外万国ト並ビ立ツベク候……」
と記されているように、政治から身を引くとは言っていません。
つまり慶喜公は、このまま幕府と倒幕派の対立が激化すれば、国内が分裂し、西洋列強の介入の危機を招いてしまう。だから、ここは政権を朝廷にお返して、聖断を仰ぎ、共に心を合わせ力を尽くしましょうと言っているのです。
そして慶喜公の大政奉還の決断の根底にあったのは、自分が権力を握りたいといった私欲ではなく、20歳の時に伝えられた「朝廷に向ひて弓引くことあるべくもあらず」という水戸家の家訓、水戸学の精神だったのだと思います。
事実、明治34(1901)年頃、伊藤博文に「どのような信条で大政奉還をなさったのでしょうか」と訊ねられた慶喜公は、「私は水戸の生まれですから、父の教えに従ったまでですよ」と答えたといいます。ただ、これは大政奉還から30年以上も経った時の証言であり、信頼性に欠けるとしてほとんど取り上げられません。しかし、次の歌を見てください。
泣く泣くもかりの別れと思ひしになかき別れとなるぞ悲しき
しばしだに君がおしへや忘るべき我になおきそ露も心を
けふよりはいづくの空にいますとも心はゆきて君に仕へん
慶喜公24歳、烈公が逝去された時に詠んだ歌です。これらの歌から伝わってくるように、特に20歳の頃に念を入れられた父の教えが、将軍になった時、そして大政奉還を決断する時に、慶喜公の心の中に常にあったということは、私には嘘だと思えません。
もし慶喜公が最後の将軍でなかったら、あのタイミングで、あれほどそっくり幕府が持っていた権力を朝廷に返すという大政奉還の決断はできなかったでしょう。
(本記事は月刊『致知』2018年2月号 特集「活機応変」から一部抜粋・編集したものです) ◎各界一流プロフェッショナルの珠玉の体験談を多数掲載、定期購読者数No.1(約11万8,000人)の総合月刊誌『致知』。あなたの人間力を高める、学び続ける習慣をお届けします。 たった3分で手続き完了、1年12冊の『致知』ご購読・詳細はこちら。
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昭和13年東京生まれ。21年茨城師範学校女子部附属小学校第三学年に転入。35年茨城大学文理学部文学科卒業(史学専攻)。茨城県立水戸第二高等学校教諭、茨城県立太田第二高等学校校長など、教育に携わる一方、茨城県立歴史館学芸第一室長、史料部長を歴任。平成18年より水戸史学会会長を務める。論文・講演多数。