2019年11月19日
約600年前の室町時代に能を大成したといわれる世阿弥。『風姿花伝』や『花鏡』などの著書を残し、その言葉や教えはいまなお多くの人の心の糧になっています。世阿弥の残した言葉や教えを、明治大学学長で長年能楽のプロデューサーとして活躍してきた土屋恵一郎さんに語っていただきました。
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「老いた後の花」をどう咲かせるか
(土屋)
世阿弥はまた優れた教育者でもありました。世阿弥は能楽師として成長するプロセスを年齢と関係づけて語っているのですが、まずその1つである「初心忘るべからず」という言葉を紹介します。この言葉は多くの人が知っているかと思いますが、世阿弥の言葉だということを知っている人は意外に少ないのではないでしょうか。
「初心忘るべからず」は、一般には「はじめの志を忘れてはならない」「初志を貫徹する」といった意味で理解されていますが、世阿弥の言う「初心」は「初志」に限られていません。若い時の初心、人生の時々の初心、老いて後の初心……世阿弥は人生の中に幾つもの初心があると言っています。
例えば、若い時の初心とは24~25歳の頃を指していますが、この頃は若くて心身ともに充実し、周囲に素晴らしいと認められる時期でもあります。しかし世阿弥は認められていることが人生の壁であり、初心なのだと言うのです。つまり、若い頃の一時的な「時分の花」をずっと続く「誠の花」だと思い、努力しない人間は失敗する、駄目になるのだと。
そして、中年の初心を経て直面する老後の初心とは、いまよく言われる「何歳になっても若い時の気持ちに戻って、いつまでも元気に頑張ろう」という意味ではありません。
老いによる様々な限界にぶつかった時に、それに応じた自分の生き方、老いの経験をどう活かし、人生の花を咲かせていくかを考えよと言っているのです。もちろん現在とは寿命が異なりますが、世阿弥は40歳を過ぎたら第一線から引いて、後継者・後進を助けなさいとも言っています。
その例として、世阿弥は父・観阿弥が52歳の時に舞った能の話をしています。観阿弥は52歳で亡くなる15日前に、静岡の浅間神社で奉納の能を舞ったのですが、動きが少なく控え目なその舞は、いよいよ花が咲くように見え、観客も称賛を送りました。
世阿弥はこの時の観阿弥の舞について、「まことに得たりし花」「老骨に残りし花」だと表現しています。自らの年齢による限界を弁えた上でなお努力を重ねていく人間には、老いた後にも必ず花が残っていると言うのです。もし観阿弥が若者のような動きの大きな舞をしていたら、世阿弥が見た花は現れなかったでしょう。
老いて後の初心―これはまさに「人生百年時代」を迎えた現代にこそ求められる名言だといえます。
また、『風姿花伝』には「住する所なきを、まづ花と知るべし」という言葉が遺されていますが、その意味は「1つの場所に安住しないことが大事である」ということです。これは私の大好きな世阿弥の言葉でもあります。
世阿弥はこの言葉で、いままでやってきてうまくいったのだから、これ以上やる必要はない、同じことをやっていればいい、という心が人間をだめにすると戒めているのです。
この言葉に特にはっとさせられるのは、既に仕事や人生でそれなりの成功を収め、心のどこかで現状の安定を望んでいる大人たちではないでしょうか。事業でも、一度の成功に安住していれば次の一手を打ち損じ、結局、他社にどんどん追い抜かれてしまいます。
そうした言葉に接すると、世阿弥は、常に完成を追い求めるけれども、完成がないまま、未完のままで生きていくのが能という芸術であり、人生であると考えていたのではないかと私は思います。
(本記事は月刊『致知』2019年7月号「命は吾より作す」から一部抜粋・編集したものです。あなたの人生、経営・仕事の糧になる教え、ヒントが見つかる月刊『致知』の詳細・購読はこちら)
土屋恵一郎(つちや・けいいちろう)
昭和21年東京都生まれ。明治大学法学部卒業、同大学院法学研究科博士課程単位修得退学。法哲学を専攻する傍ら、能を中心とした演劇研究・上演の「橋の会」を立ち上げ、身体論、特に能楽・ダンスについての評論活動に取り組む。平成2年『能―現在の芸術のために』(岩波現代文庫)で芸術選奨新人賞受賞。芸術選奨選考委員(古典芸能部門)、芸術祭審査委員(演劇部門)を歴任。北京大学日本文化研究所顧問。『世阿弥の言葉―心の糧、創造の糧』(岩波現代文庫)『能、ドラマが立ち現れるとき』(角川選書)など著書多数。