【広島平和記念日】原爆供養塔の掃除に一生を捧げた佐伯敏子さんの生き方

8月6日は広島に原爆が投下された日です。8時より広島の平和記念公園で、平和祈念式典が開催されますが、公園内にある引き取り手がない遺骨を納めた原爆供養塔の存在をご存じでしょうか。その原爆供養塔の掃除を40年以上にわたって続けられたのが被爆者の1人、佐伯敏子さんです。日本人として決して忘れてはならない1日にあたって、平和の大切さについて考えるきっかけにしていただければ幸いです。

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引き取り手がない遺骨を納めた 原爆供養塔

〈佐伯〉
この掃除を私が始めてから、もう40年になるというわけです。広島市がこの塔をつくったのが、戦後10年ほど経ってからでしたから、なるほど40年以上になるわけです。そもそも私が原爆供養塔の掃除を始めたのは、それは昭和20年8月6日にさかのぼります。

その朝、私は広島市から山を1つ越えた田舎の姉の嫁ぎ先にいました。敵か味方か、山の上を飛行機が1機飛んできて、すぐに引き返すのが見えました。そのときです。山の向こう、広島のほうの空を異様な光が焦がしたのです。間もなく大音響がして、熱気を帯びた空気に包まれました。気がつくと、広島のほうにもくもくと煙が立ちのぼっています。空が曇り、黒い大粒の雨が降ってきました。

「広島がやられた」

私は広島に住む家族、母や兄妹たちのことを思いました。……その思いに急かされて、私は山を越え、広島にもどったのです。そこで見たものの1つひとつは、いまでも鮮明です。

忘れようとして、忘れられるものではありません。生き地獄。いいえ、そんな生易しい言葉で表現できるものではありません。私は家族の姿を求めて歩き回りました。ふと、死体のように横たわっていた人がむくりと動いて、私の足首をつかみました。
 
私はそれを振り切って進みました。「助けて」「水を」と動けなくなった人たちの呼びかける声に耳をふさいで通りすぎました。どこが道かもわからないままに、死骸を踏みつけて歩きました。

あのとき、自分に何ができたろうかと思います。何もできなかったでしょう。だが、私が助けを求める何人かの人を見捨てたことも事実です。私の抱く後ろめたさとはそのことです。原爆供養塔には、私が見捨て、無視して通りすぎた人たちの遺骨が、納まっているかもしれないのです。

「ごめんなさい」「すみませんでした」

詫びても詫びても償いきれるものではありません。だが、習わぬお経を唱えながら、ホウキで掃き、草を1本1本むしらずにはいられないのです。そうして、40年以上が過ぎたということです。

聞かせるのではなく伝える語り部に

この戦争はあかん。はっきりしたことはわからなくとも、多くの人がそう感じていたはずです。だが、誰一人として「戦争はやめにしよう」とは言いださなかった。感じたことを言わなかったのは、結局自分のためだったと思うのです。

それを言い出せば非国民と言われる。いろいろと迫害され、差し障りが出てくる。そうなるのはいやだから、何も言わなかった。だがその結果は、多くの命を一瞬の閃光に消し去ることになってしまったのです。いや、すべてが消えてしまったのではない。原爆という理不尽な平気で生きることを止められた人たちの無念の思いは、いまも広島に漂っているのです。

自分がやったこと、見たことを自分の頭で感じ、考え、それを表していく。一人ひとりがそれをしなかったら、また同じことを繰り返すことになってしまうでしょう。

一人ひとりが自分の五体で感じ、頭で考え、それを言葉で表し、行動に移していく。それができなかったら、広島で死んでいった人たちの無念の思いは消えないでしょう。

そのためには、昭和2086日の広島で何があったのか、そのことをありのままに語っていかなければならないと思いました。私はどこでもあの日のことを語るようになりました。もっとも、そのために親戚やご近所から顰蹙を買いました。当時はGHQの占領下です。アメリカ軍の気に障って引っ張られては困る。そういうことには関わり合いたくない。多くの人がそうだったと思います。

でも、私にも焦りがあったのかもしれません、。そういう差し障りから自分を守ろうとした結果が、広島の原爆になったのではなかったか。幾分押し売りじみたやり方で、私は広島を語ることをやめませんでした。

そんな私を変えたのは、原爆供養塔の掃除です。毎日掃除をしていると、訪れる参拝の人が時折話しかけてきます。多くの人が語りたい思いを胸に秘めているのでした。その話に耳を傾けました。また、掃除をしている私の話を聞きたがる人もいました。

その中で、聞かせようとしても広島の思いは伝わらないのだと知りました。多くの人がそれぞれの思いを語り合う。聞かせるのではなく伝える。そのとき初めて、私の話を受け止めてくれる人が出てくるのだと気づきました。それが広島の語り部としての私の姿勢になりました。

遺骨は1日も早く遺族の懐に抱かれたいと願っているに違いない

ほとんど毎日原爆供養塔の掃除に出かける私を、市に雇われ、給料もボーナスももらっているのだと思っている人も多かったようです。

だが、そんなことではありません。私は自分がやりたいと思ったから、自分1人でやってきただけのことです。市の担当部署ではそんな私に、外側だけでなく内側も掃除してほしいと鍵を預けました。供養塔の鍵を開けて地下の納骨室に入っていくと、正面に祭壇があり、右側には性別さえもわからず、骨が収集された町名だけを記した箱が積み上げてありました。

だが、左側の6段の棚には、名前や住所、中には年齢まで記された十紬ほどの杉の箱に入った遺骨が並んでいました。遺族がわからないのでしょうが、これだけ手がかりがあれば捜し出すのは難しくないだろうに、と思いました。

ある初老の婦人は、夫の遺骨を抱いて、「これで私は未亡人になりました」とつぶやくように言いました。夫は生きていると信じ、それを心の支えにして7人の子どもを育て上げたということです。夫の遺骨を迎えてお葬式が営まれ、その席に私も招かれましたが、悲しみを乗り越えて新しく生きていこうと決意しているのでしょう、その婦人の横顔は凛とした気配に包まれていました。私が最初に地下の納骨室に入ったときは、何かしら手がかりとなりそうなものがある遺骨が1800柱余りだったのに、いまでは800余りを残すだけ、多くの遺骨が安住の地を得ることができたのです。

広島には数多くの慰霊碑や供養塔がありますが、その1つ「念ずれば花ひらく」文字を刻んだ慰霊碑があります。この『致知』に連載されている坂村真民さんの言葉です。
 
これは本当なのかもしれません。広島の思いを伝えたい。それを受け止めてくださった人の中で1人でも、自分で感じ、考えたことを言葉に表し、行動する生き方をしてほしい。私のその一念が、少しは実りをもたらしているのを感じるからです。

人間は意識して勤勉になるのではありません。思いの強さが、人を勤勉にするのです。広島の思いを伝えて、自分が感じ、自分の頭で考えたことを、そのまま表し、行動する生き方を1人でも多くの人にしていただけたら、一瞬の閃光で生を絶たれた母や兄妹たちが、にっこり微笑んで私を迎えてくれるに違いない。私はそう信じているのです。

(本記事は月刊誌『致知』1999年10月号特集「勤勉の哲学」から一部抜粋・編集したものです)

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◇佐伯敏子(さえき・としこ)
大正8年広島県生まれ。昭和20年広島原爆投下により被爆、親族13人を失う。戦後は自らの被爆体験を語り続けるとともに、原爆供養塔の掃除、供養塔内に安置された遺骨の遺族捜しに取り組む。平成29年、広島市内の病院にて逝去。手記に『ヒロシマに歳はないんよ』ほか多数。

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