附属池田小事件で逝った愛娘とともに——本郷由美子

2001年6月8日、平和な学校に押し入った一人の男の凶行により、8人もの尊い命が奪われた付属池田小事件。この事件で7歳の愛娘を失った本郷由美子さんはいま、様々な喪失体験に苦しむ人々を支える活動に取り組んでいます。本郷さんはどのように絶望から新しい運命を開いてきたのでしょうか。

69歩からは一緒に手を繋いで

〈本郷〉
あの事件の最中、現場にいたのはほとんど子供たちばかりだったために、事件の詳細はなかなか明らかになりませんでした。

我が子がどこで倒れたのかも分からず、もどかしさを募らせる私たち遺族は、学校や警察の協力を仰ぎながら毎晩のように報告会を開き、事実を解明していきました。

その結果、体に負った傷の深さから間違いなく即死だと思われていた優希が、最後の力を振り絞って廊下を歩いていたことが分かったのです。

それを知った時のショックは、とても言葉では言い表せません。誰も助けの来ない場所でたった1人、途轍もない苦痛と恐怖と絶望の中で最期を迎えた娘の心中を思うと、身悶えするほど胸が痛みました。

その廊下には、優希の流した血が黒く変色し、大きな血だまりとなって染みついていました。主人と一緒に頬ずりをし、手で擦り続けるうち、その床板が優希そのもののように思えてきました。

襲われた場所から教室を出て、倒れた場所まで血痕を辿ると、私の歩幅で68歩。事件当初からずっと私たちの気持ちに寄り添ってくださっていた刑事さんも、「あれほどの深手を負いながらここまで歩くとは、何という生命力でしょう」と驚かれていました。

以来その廊下は、私たちにとってかけがえのない聖域になりました。事件から守ることはできなかったけれど、優希が頑張ったこの廊下だけは何としても守りたい。先生方にお願いして周囲を机で囲み、私たちは何度も何度もその廊下に通いました。優希が最後にどんな思いでそこを歩いたのか。何でもいいから知りたい、何かを感じ取りたい。そう願ったのです。

最初は苦しむ優希の顔しか浮かびませんでした。けれどもその68歩を辿り続けてひと月経った頃、笑顔で走って来る優希が見えてきたのです。

「よく頑張ったね、優希……」

胸に飛び込んできた小さな体を、私は思い切り抱き締めました。

実は廊下に通い始めた頃、私はそこで命を絶とうと思っていました。「優希、お母さんは苦しくて、苦しくて、とても生きていられないわ」と心の中で訴えかけ、優希と同じように傷を負って、同じように歩いて、ここで死にたいと密かに思っていたのです。優希はそんな弱い母親に、

「お母さん、命ってこんなに素晴らしいものなのよ。だから与えられた命を精いっぱい生きてね」

とメッセージをくれたのです。真っ暗な私の心に、ふっと光の点る思いがしました。

それまでは優希を殺めた犯人を、心の底から憎んでいました。極刑を求めて署名運動もしました。私はほとんど人を憎んだことのない人間でしたが、そこで自分の心は崩れてしまった、もう元の心は取り戻せないんだと思うと、そういう自分が嫌で仕方がありませんでした。

でもその光に出会って、それって変えられるよねと思うことができたのです。憎しみや悲しみからは何も生まれないし、自分をどんどん苦しみに追いやってしまうだけ。そういう破壊的な思いを生み出しているのは自分の心なのだから、生きる力とか希望といった建設的な思いにも変えることができるかもしれない。

私が誰かを恨んだり憎んだりしていて、優希の魂が救われるはずはありません。私が鬼のような顔をしていたら、心の中の娘も鬼のような顔をするし、泣いていたら娘も泣いている。そうだ、私が笑顔になれば優希も笑顔になるし、私が癒やされることで、優希も癒やされるのだと気づいたのです。

辛い、辛い68歩だけれど、そこから学んだことを何かに繋げられるかもしれない。学んだことを伝えていくことで、失われた命を未来に繋ぐことができるかもしれない。

68歩までは優希が一人で頑張った。69歩からは私も一緒に手を繋いで歩かせてください。そう神様にお願いして、私は再び生きていこうと心に決めたのです。

人によって傷つけられ、人によって救われる

私はいま、親しい人との死別など、何らかの喪失体験を抱えて悲しみに沈む人に寄り添う伴走者として、心や魂の癒やしをお手伝いするグリーフケアに携わっています。

娘を奪われた心の痛みを、私は決して乗り越え、克服したとは思っていません。たくさんの方々に支えられながら、自分の直面する問題に何とか折り合いをつけ、一つひとつ乗り切りながら生きてきたというのが実感です。そうした中で新しい運命が少しずつ開けていき、自然と導かれるように始めたのがこのグリーフケアの活動だったのです。 

私にグリーフケアのことを教えてくださったのは、アメリカのコロンバイン高校のご遺族の方々でした。日本では平成17年に起きた福知山線脱線事故を契機に上智大学に研究所が開設され、平成23年の東日本大震災でその重要性が広く理解されるようになりました。 

グリーフケアは、様々な喪失を体験し、悲しみを抱えた方々に寄り添い、ありのままに受け入れて、その方々が自らの力で現実を受け入れ、立ち直り、自立し、成長し、そして希望を持つことができるように支援させていただく活動です。 

かつての私は、何の罪もない娘がなぜ事件に巻き込まれなければならなかったのかと悲嘆に暮れていました。私と同じように、答えのない問いの中を彷徨い続ける人が新しい一歩を踏み出すためには、こうした適切なサポートが必要であることを実感しています。 

私がこの活動で様々な方との関わりを持つようになったのは、自らの体験を通じて、人は人によって傷つけられるけれど、人によって救われもすることを実感したからです。 

最愛の娘を殺められた私は、しばらくは人を信じることができなくなりました。けれどもそんな私をどん底から引き上げてくれたのも、ありのままの私を受け止めてくださる人でした。 

人様から何かをしていただいたら、今度は自分も別の誰かに何かをして差し上げることを、恩送りといいます。私は医者ではありませんが、そうしたささやかな恩送りの活動を通じて、精神的な部分で命を支え、命を繋いでいく活動に携わっていきたい。そう願うようになったことで、私は新しい運命を切り開いてきたといえるかもしれません。 

この活動を始めてもう16年(本誌掲載当時)になりますが、これまでに私と同じ犯罪被害者の方、災害被災者の方、身障者の方、緩和ケア病棟で余命幾ばくもない方、ホームレスの方等々、数え切れない方に寄り添い、その命と向き合ってきました。

私がいつも心掛けてきたことは、何かしらの巡り合わせでご縁をいただいた方を、一人ひとりの存在をただひたすら大切に思うことです。 

私が優希を失った後で辛かったのが、同じ事件の被害者として8人の遺族がひと括りにされることでした。けれども実際には、同じ事件でも一人ひとり亡くなった状況も違えば、悲しみ方、苦しみ方も違い、決して一緒くたにはできないのです。 

他の遺族の方々が揃って裁判を傍聴しに行かれるというのに、私一人がそのような気持ちになれず、自分の心は弱いのではないかと思い悩んだこともありました。夫婦の間ですら受け止め方の違いを感じて「なぜあなたは悲しくないの。私はこんなに悲しんでいるのに」と主人を責めたこともありました。 

そういう体験があるからなおさら、私は一人ひとりと向き合うことを大切にしたいのです。 

いまは犯罪加害者のケアもしています。附属池田小事件の犯人が犯した罪は、決して許されるものではありません。けれどもその生い立ちを知るにつれ、彼もある意味では被害者だったのだと思うようになりました。 

もし誰かが彼に寄り添い、心の内を受け止めてあげていたら、もしかしたらあの不幸な事件は起きなかったかもしれない。

それができない社会が、加害者を生み、被害者を生んでしまっているのではないかという思いもあり、たとえどんな過ちを犯した相手であっても、私は人として向き合い、救える命を救いたい。それがこの事件を通じて私が辿り着いた心の底からの思いなのです。


(本記事は月刊『致知』2019年7月号 特集「命は吾より作す (めいはわれよりなす)」から一部抜粋・編集したものです)

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◇本郷由美子(ほんごう・ゆみこ)
群馬県生まれ。平成7年阪神・淡路大震災で被災し、大阪府池田市に転居。13年大阪教育大学附属池田小児童殺傷事件で愛娘を失う。翌年グリーフケアと出合い、17年精神対話士の資格を取得。その後上智大学グリーフケア研究所で専門スピリチュアルケア師の認定を受け、同研究所で非常勤講師を務める。現在は、事件や事故の被害者、東日本大震災の被災者や身近な人を亡くした悲しみに寄り添う活動のほか、いのちの重さ・大切さを伝える講演活動に邁進。著書に『虹とひまわりの娘』(講談社)がある。

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事件のあの日から20年――本郷由美子さんが『致知』で語った思い

絶望の淵から立ち上がり、悲しみをケアする活動へと歩を進められたその軌跡に迫る

インタビューが、『 致知別冊「母」』Vol.2 に全編収録されています

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