2021年07月29日
「終戦の詔勅」の草案作成にも関わり、「平成」の元号を考案するなど、日本の現代史に大きく関わった安岡正篤師。その人柄、素顔とはいったい――生前の貴重なエピソードを、安岡師の令孫であり、全国各地で『論語塾』を主宰されてきた安岡定子さんに振り返っていただきました。(対談のお相手は埼玉りそな銀行社長〈当時〉・池田一義さんです)
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私にとってはただのおじいさま
〈池田〉
定子先生が『論語』を深く学ばれているのは、やはりお祖父さまの影響なのでしょうね。
〈安岡〉
皆からそう言われるんですけど、ありがたいことに祖父からは放任してもらっていたので、ごく普通の学生生活を送ることができました(笑)。素読をしたり特別の思いを持って古典を読む、といったことはありませんでしたね。
ただ、私はもともと漢詩が好きでしたのでそういう関係の学校に進もうとは考えていたんです。ある時、そのことを祖父に話したところ、
「本当に漢文を学ぼうと思ったら、一番先生が充実している二松學舍大学にしなさい」
とすぐに答えが返ってきました。20年近く一緒に住んでいて「学校生活はどうだ」とか「成績はどうだ」とか一度も聞かなかった祖父が、アドバイスをしてくれたのは、その時が初めてでした。
ですから、私が古典を学ぶようになったのは大学に入ってからです。そこで尊敬できる先生と出会って丁寧に育てていただいたことが、いまの私の基礎になったと思っています。結婚して下の子が小学校に入ったあたりでもう一度、古典を学びたいと思うようになったのも、二松學舍大学で過ごした4年間があったからでしょう。
〈池田〉
そうですか。安岡正篤先生というと私には雲の上の人というイメージがあり、家庭でも厳格でいらしたと思っていましたので本当に意外です。
〈安岡〉
最近、いろいろなところで「お祖父さまがいまの政局や経済を見てどのようなコメントを出されるか、聞いてみたかったです」という声をいただくことが多いんですね。でも、祖父はそういうことに関して家では一切語らない人でしたから、私は大人になるまで祖父がどういう仕事をしている人なのかを知りませんでした。
ふといなくなって夜遅く帰ってくるかと思えば、一日中書斎に籠もっている日もある。学校の先生でも勤め人でもなさそうだし、職業を聞かれたら何と答えたらいいんだろうと悩んだくらいです。だから、ある時から「私にとっては、ただのじいさまです」とお答えすることにしました(笑)。
〈池田〉
そう言える立場でいらっしゃるのが羨ましい(笑)。
〈安岡〉
実際、家では全く激したところがなく、穏やかにニコニコしている印象しかありませんでした。その代わり自分が勉強するとか、何か調べ物をするという時は、ゆっくり晩酌した後でも「こうしちゃおれんので、私は勉強しに行く」と言って書斎に戻っていくのが常でしたね。
後年、祖父の本を読むようになった時、その行間から「ああいう生活の中で、このような文章が生まれたのだな」と想像を膨らませるのが楽しみになったものです。
「決して答えを覚える必要はない」
〈池田〉
定子先生はこれまでどういう書物を心の支えにしてこられましたか。
〈安岡〉
一つには祖父が若い人たちのために語った『青年は是の如く』という冊子本です。いま致知出版社さんから『青年の大成』というタイトルで発刊されていますが、これは私が子育てをしながら常に座右に置いていた、とても思い出深い一冊なんです。
その内容は、例えば、幼い子を幼稚だと大人は思い込んでいるけれども、そうではないんだと。確かに経験や言語に関しては大人よりも劣っているけれども、感性はとても磨かれていて、時に核心を突くようなことを言ったりもする。子供が幼稚だと思うのは大人の傲慢さであって、内面が豊かな小さい子に接する大人ほど上質でなくてはいけない、といったことが述べられています。これはいま子供たちに『論語』を教える上で大きな指針となっています。
もう一つ、この本の魅力は人間は枝葉末節にとらわれてはいけない。常に本質を見て幹を育て根を張る努力を怠ってはいけない、ということが誰にでも分かりやすく書かれている点です。
〈池田〉
まさに「思考の三原則」ですね。
〈安岡〉
ええ。全く同じです。この本はハウツー本と言われるものとは全然違います。でも、ハウツー本を読んでやってみても上手くいかなかった時に、ではどうしたらいいのかが示されているように思うんです。要するに物事の根本の部分を教えてくれているので、それをヒントにしていろいろな方法を自分の頭で考えることができる。
いま子供たちの授業でも「まず自分でよく考えてください。言われたことだけができるのではなく、自分で考えることを習慣にしていきましょう」といつも言っていますが、それもこの本の影響があったからだと思います。
〈池田〉
子供だけでなく、大人にとっても大切なことですね。
〈安岡〉
私自身、自分で考えることの大切さを実感できたのは、祖父がさりげなくそのことを教えてくれたからです。
学生時代、宿題で出された漢文にどうしても分からない部分がありました。祖父の晩酌のお相伴をしていた時に、たまたま「いま大学で何をやっているんだ」と聞かれ、待ってましたとばかりに教科書を持っていって「ここが読めません」と質問したんです(笑)。
祖父は晩酌中でも席を立って一緒に書庫に行ってくれます。そして書棚の間を歩きながら本を選んでは必要なページを開きます。それを数回繰り返します。開いた本を数冊重ねて持ってきて「ここに答えがある」と。だけど、それ以上は何も教えてはくれない。本だけは探してあげるけど、これを読んで自分で答えを考えなさいという意味だったのでしょう。
こういうこともありました。祖父は諸橋轍次先生編纂の『大漢和辞典』全12巻の中から、画数を数え切れないような難しい字を、まるで魔法のようにサッと引くんですね。そして次に私に引かせる。でも私はなかなか上手く引けない。そんな私の側で、引けるまでいつまでもじっと待っていてくれる。
祖父は「どうやったら答えを導けるか、その方法を知っているのが本当の学問で、決して答えを覚える必要はない。答えを引き出して使いこなすことが何より大事なんだ」と教えてくれましたが、私がいまお子さんを教える時に気長に付き合ってあげられるのも、「苦労して得たものは必ず自分のものになる」という確信があるからだと思います。
(本記事は月刊『致知』2016年7月号 特集「腹中書あり」から一部抜粋・編集したものです) ◎各界一流プロフェッショナルの珠玉の体験談を多数掲載、定期購読者数No.1(約11万8,000人)の総合月刊誌『致知』。あなたの人間力を高める、学び続ける習慣をお届けします。 たった3分で手続き完了、1年12冊の『致知』ご購読・詳細はこちら。
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◇安岡定子(やすおか・さだこ)
昭和35年東京都生まれ。漢学者・安岡正篤師の孫。二松學舍大学文学部中国文学科卒業。論語教室の第一人者として知られ、子供からビジネスマンまで全国各地の二十八の講座を受け持つ。主な著書に『楽しい論語塾』(致知出版社)『心を育てる こども論語塾』(ポプラ社)『はじめての論語』(講談社α新書)など。
◇池田一義(いけだ・かずよし)
昭和32年東京都生まれ。明治大学卒業後、埼玉銀行(現・埼玉りそな銀行)入行。平成16年りそなホールディングス執行役、23年りそな銀行取締役兼専務執行役員、25年埼玉りそな銀行副社長、26年同社長に就任。