2020年08月19日
念願のプロサッカー選手という夢をかなえてから3年目、右大腿骨骨肉腫を発症した塚本泰史さん。利き足を奪われ、一度は絶望に落ち込んだ塚本さんは、大宮アルディージャのアンバサダーとしていまもチームに携わっています。「神様なんていない」と思った復帰不可能の宣言から再びピッチの上に立てるようになるまで、塚本さんを支えたものとはなんだったのでしょうか。
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プロ3年目で訪れた青天の霹靂
幼い頃から追い続けてきた、プロサッカー選手の夢を掴んだのは2007年、大学4年生の時でした。
通っていた駒澤大学はサッカーの強豪校で、当時から多くのJリーガーを輩出していました。チームのメンバーが次々にスカウトされていく中、声を掛けてもらえない日々が続き、悔しさをバネに一所懸命に練習を重ねました。
4年生になる時にプロチームから声が掛かり、卒業した2008年に地元埼玉県の大宮アルディージャに入団。2年目にはリーグ戦21試合に出場し2得点を挙げ、これからの活躍が期待されていた時でした。夏頃から右足を痛みが襲うようになってきたのです。
初めは軽い治療で治まる程度のものだったのでサッカーを続けていました。しかし、2010年1月、痛みに耐え切れなくなって受けたシーズン前のメディカルチェックで、右大腿骨に腫瘍が見つかったのです。
初めに思い浮かんだのは、サッカーのことでした。それまでの人生を振り返れば、どこを切ってもサッカーというくらい僕にとってサッカーは命そのもので、サッカーができない人生など考えたこともありませんでした。
医師から「手術で命は助かっても、腫瘍がある骨を取り除いて人工関節にしなくてはいけない。サッカーを続けるのは難しい」と宣告を受けた時には、もう悔しくて、悲しくて、どうしようもなく涙が溢れてくるばかりでした。
サッカーは失いたくないけれど、命も失いたくない――。
手術するかどうか悩みましたが、父や母、そして「自分の骨を差し出してでも助けたい」と言ってくれた兄、周りの方々の支えによって手術を決断しました。復帰は無理だと言われたのは前例がないからで、だったら自分が人工関節でサッカーをした最初の人になろう。もう一度ピッチに立とうと決意したのです。
もう一度ピッチに立つために
手術後も多くの人に支えられました。特に同じ病院で共に闘病生活を送った香奈ちゃんという当時高校生だった女の子との出会いは、いまでも活動の支えとなるくらい僕にとっては忘れ難いものでした。
香奈ちゃんに初めて会ったのは病院のリハビリ室。その頃の僕は、サッカーがしたい一心でリハビリに励んでいたものの、立つことすらままならない厳しい現実を前に、塞ぎ込んでいました。
香奈ちゃんは、がんの再発によって片足をなくしたにも拘らず、いつも笑顔で明るく、大好きなバスケットボールをもう一度するために懸命にリハビリをしていました。僕はそんな彼女の姿に勇気を貰い、リハビリを続けることができたのです。
翌年、香奈ちゃんは病院で静かに息を引き取りました。共に病気と闘ってきたからこそ、復帰の日を夢見ながら逝ってしまった香奈ちゃんの悔しさや無念さが痛いほど胸に突き刺さりました。
香奈ちゃんからは、人に優しくすることや、どんなに辛く苦しくても一所懸命に努力することの大切さを教えてもらいました。彼女との出会いがあったからこそ、病気を乗り越え、いまの自分があるのだと思えるほどです。
多くの方に励まされ、諦めずにトレーニングを重ねた結果、僕は手術後1年3か月後にようやく走れるまでになりました。次第にトレーニングのメニューが増え、心肺機能が少しずつ上がっていったためです。
退院後はもう一度ピッチに立つために、東京マラソンや富士山登頂、約1300キロの自転車走破など、数々の挑戦をしてきました。
病気が発覚してからも現役の選手として1年契約を続けてくれた上に、契約終了後はクラブアンバサダーという、後方支援の仕事を与えてくれた大宮アルディージャには感謝してもしきれません。
そして、2017年にクラブの創立20周年を記念して催されるOBマッチで、選手としてピッチに立つ話が舞い込んできたのです。絶対にこのチャンスを逃したくないとの思いで、この時からサッカーに特化したトレーニングに切り替えました。
2018年9月、手術から約八年の歳月を経て、僕はもう一度ピッチの上に立つことができました。サポーターやファンの方からの温かい声援に包まれ、初めてJリーグの試合でピッチに立った時のように、心地よい緊張と喜びに満ち溢れていました。辛いことは沢山あったけれど、ここまでサッカーを続けてきて本当によかったと心から感じた瞬間でした。
病気になった当初は、プロになってからたった2年でサッカー選手の命でもある利き足を奪われ、サッカーの神様なんていないのだと考えていました。しかし、最近になって知ったのですが、入団前のメディカルチェックの段階で実は腫瘍が既にあったかもしれないというのです。もしその時に発見されていれば、プロになる道をそこで断たれていたでしょう。サッカーの神様は僕に、2年間Jリーガーになる夢を叶えさせてくれたのだと思います。
サッカーができる喜びや挑戦し続ける勇気、応援してくれる人の存在、僕の姿を見て力を貰ったと言ってくれる人たち……。これらはすべて病気になっていなければ分からなかった感覚であり、出会いでした。支えてくださる多くの方々へのご恩返しのためにも、僕は何度でも挑戦し続けます。
(本記事は『致知』2020年5月号 連載「致知随想」より一部抜粋したものです。)
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◇塚本泰史(つかもと・たいし)
1985年埼玉県生まれ。駒澤大学サッカー部にて、関東大学サッカーリーグのほか全日本サッカー選手権に出場、2005年、2006年に優勝を経験する。2008年に大宮アルディージャに入団。加入3年目の2010年に右大腿骨骨肉腫を発症。現在、大宮アルディージャ・クラブアンバサダー。