西郷隆盛の精神を最も受け継いだと言われる男、西郷菊次郎

明治維新の立役者・西郷隆盛を父に持ち、のちに台湾統治や京都市市政において功績を遺した人物がいます。奄美大島生まれの西郷菊次郎です。隆盛が愛した「敬天愛人」の精神を最も受け継いだとも目される菊次郎は、どんな一生を送ったのか――。拓殖大学元常務理事の佐野幸夫さんに語っていただきました。

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父・西郷隆盛との今生の別れ

〈佐野〉
陸軍大将の軍服を身にまとった西郷の本営には、篠原国幹(しのはら・くにもと)、桐野利秋(きりの・としあき)ら並み居る幹部とともに、当時17歳になる西郷菊次郎の姿もあった。父の警護をせんがためだ。熊本城の攻防が始まると、篠原国幹が率いる一番大隊の中央に配置された菊次郎は、一兵卒として銃撃戦に加わっている。

ところが戦局が思わしくない。薩摩軍の旧式銃に対して、最新鋭のスナイルド銃を完備していた政府軍の火力は凄まじく薩摩軍側は次々と斃れていく。菊次郎も一瞬の隙を突かれて敵の銃弾を受けると、体ごと吹き飛ばされた。

すぐに野戦病院に運び込まれると、撃ち抜かれた右膝下を診た医者は膝下切断を決断する。そうしなければ命そのものが危険だと判断したからに他ならない。麻酔などあろうはずもなく、全身が痺れるような痛みにも菊次郎はただ必死に耐えるしかなかった。

病院で養生している菊次郎の耳には、薩摩軍にとって不利なものが次々と舞い込む。ついに本営の後退を余儀なくされると、菊次郎も移動を迫られた。既に松葉杖を使って歩けるようにはなっていたが、長距離の移動は西郷が付き添いを命じた下僕の熊吉が背負って歩いた。

宮崎まで敗走を続けた西郷は部隊の解散を宣言するとともに、傷病者には政府軍に降るように告げた。この時、西郷は菊次郎と熊吉にも投降を命じている。

「おはんたちの命を大切にして家族ともども親に孝養を尽くせ」

この永訣の辞に、二人は嗚咽(おえつ)し、涙が滂沱(ぼうだ)として流れ落ちるのを止めることができなかった。

台湾統治における菊次郎の功績

(菊次郎は)児玉源太郎が台湾総督に就任する一年前から台湾北部の宜蘭庁長として統治にあたっていたが、匪賊たちの蛮行に頭を悩ませていた。そこに、後藤民政長官から全土の庁長に指令が発せられる。これまでの匪賊たちの悪行は不問とし、投降すれば職を与え、生活を保障せよ、と。

この指令に我が意を得たりと感得した菊次郎はすぐに行動に出た。匪賊(ひぞく)たちとの話し合いを始めたのだ。交渉にあたって菊次郎は丸腰で臨んでいる。もし仮に襲われようものなら、義足の身では武器を持っていようがひとたまりもない。腹を決めた菊次郎は、周囲の心配をよそに通訳だけを連れて裸一貫で臨んだという。

こうした姿勢は父・西郷隆盛の度量の大きさを受け継いだ菊次郎ならではだろう。それまで常に武器を突き付けられてきた匪賊たちは菊次郎の態度やその人柄に触れ、次第に心を許していった。

やがて匪賊の首領たちが菊次郎に面会を申し込んでくると、喜んだ菊次郎は首領たちを迎え入れ、帰順を受け入れたのだった。

帰順式が行われた宜蘭憲兵駐屯所裏手の公園には、首領3人が出頭し、その後ろには300名近い匪賊も参列したという。台湾統治の新しい方針に先鞭をつけることとなったこの帰順式を大いに喜んだ後藤民政長官も、この式に駆けつけている。

そして、これを契機として台湾北部に跋扈する有力な首領たちは何100名という部下とともに次々と帰順していった。


(本記事は月刊『致知』2014年7月号 特集「自分の花を咲かせる」より一部抜粋・再編集したものです)

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◉『致知』2022年1月号では、西郷隆盛と勝海舟――江戸城無血開城を成し遂げ、明治の新しい世を切り開いた二人に通底する精神を、歴史学者の濱田浩一郎さんに紐解いていただきました。〈本記事は「致知電子版」アーカイブにてお読みいただけます〉

◇佐野 幸夫(さの・さちお)
昭和8年千葉県生まれ。37年拓殖大学商学部卒業。日刊房総新聞社、千葉新聞社に勤務した後、54年拓殖大学総務部長、教務部長、事務局長、常務理事などを歴任。著書に『西郷菊次郎と台湾』(南日本新聞開発センター)など。

◇西郷 菊次郎(さいごう・きくじろう)
文久元(1861)年奄美大島龍郷村生まれ。明治2(1869)年鹿児島西郷本家に引き取られる。5年米国に留学。10年西南の役に従軍。17年外務省御用掛、20年2度目の米国留学へ。29年台北県支庁長を経て、30年宜蘭庁長に任ぜられる。37年京都市長に就任。43年台湾協会学校(現・拓殖大学)評議員に就任。45年島津家鉱業館館長を命ぜられる。昭和3(1928)年鹿児島の地で没する。

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